街と飛行船 |
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四角佳子からぼくにメールがあった。 Iさんから質問メールを貰ったという。 そのメールには、末尾に、四角自身はわからなかった質問がある。 長い文章ではではあるけれど、全体を読んでいただかないことには、 今回の掲載理由にたどりつけない。 Iさん自身の許可もいただいたので、メールの一部を、 上記の表に載せさせていただいた。 |
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そうして、メールはIさんによる四角への質問事項につながる。 (この部分はIさんのメールページと重複する) 質問:1,「街と飛行船」ですが、このLPレコードはキングレコードが制作とありま すので、小室さんがせっかくスタジオ録音したのだからとちゃっかり入れちゃったの でしょうか?でもそのままでなく4チャンネル用にミキシング等を変えるわけですが、 その辺聞いてみてください。 質問:2,残念ながらか当然かこの歌の歌詞は掲載されていませんでした。ほかの歌 はあるのにね。また歌詞は後半の部分、「乞食も泥棒、、造花をいっぱいくっつけて はねよう」、「踊って歌って笑ってはねれば」と全部「はねる」になっており、今ま で聞いていた歌詞でなないので新鮮でした。実際の原詩はどうなんでしょうかねぇ、、 |
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この質問に直接答えるとすると、 質問:1については、記憶がない、 質問:2については、確かめていない、となってしまうのだが、 Iさんのメールを四角に読ませてもらったとき、 これは、そういうことではないなとおもった。 この質問に詳細に答えられるか否かよりも、 ここに立ちどまって、ふりかえる、あじわう、はんせいする、かんがえなおす、 なんでもいいのだけれど、だまって通過するのは無しだと、感じたのだ。 「街と飛行船」に戻って、事実関係を整理すると、 1 いくつかの録音バージョンが存在する。 2 それらは、小室等ソロ録音盤用、六文銭「メモリアル」の公開録音盤用、その他がある。 3 因果関係はあきらかではないが、録音盤によって歌詞が変化している。 付随する問題として、 1 歌詞の改作は、なんらかの外部からの圧力によるものではないのか。 ( 単に、音楽的なアレンジなどの問題解決のためとは考えにくいところもある。) 2 戯曲段階での改作はなかったのか。いや、あったのか!? このセンで考え出すと、けっこうきりが無く、 そうぼくも、きりが無くなくなっているというわけだ。 |
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話をもどす。 このようなムズカシイ質問に対する回答は及川にまかせる、 と四角のメールの結びにあったが、自分でこの歌を書いていないこともあり、 ぼくはすっからかんと忘れました、と白旗じるしの返事メールを書くつもりだった。 すっらかんと忘れているもなにも、ぼく自身は、歌い手のひとりとして参加したものの、 歌詞の変遷に対しては、部外者的な立場だったので、ふれていないところが多い。 それを象徴するジケンをひとつ、告白する。 「やさしい日本人」という映画に、ぼくたち六文銭が出演して、踊りながらうたっている。 ぼくもメンバーなのだから出演しているのだが、実は声だけだ。 撮影場所にいったらもう録画は終わっていて、音どりにだけ参加したのだった。 遅刻の理由は、ここに書かない。 書いても四角と小室に「こーげき材料」を提供することにしか役立たない・・・。 さて、その映画ではどの歌詞で歌っているかだけれど、それもすっらかんと忘れている。 つまり、街と飛行船を語るにしては、あまりにぼくの立場は弱く、 Iさんや四角の期待には、ほとんどそえないのである。 では、小室自身はどうなんだろうか・・・ たぶん、人生経験が多いと、前のほうからところてん式に忘れていっているとおもわれる。 今度会ったとき、一応質問してみるけれど。 「街と飛行船」の歌詞の改作に直接かかわったのは、 当然、作詞者である別役実だとおもうけれど、そんなに何度も書き換えたのだろうか。 戯曲台本をあたってみる必要もあるだろう。 この場での作業としては、まず書き換えられていった歌詞の断片を ひろいあつめて、時間軸上にならべてみるることが必要だろう。 詩の質の変化を比較検討していくと、見えてくるものがあるかもしれない。 変えられた時期、発表されたメディア、商品の規模を比較してもいいかもしれない。 いずれにせよ、もう少し資料がほしいところ。 みなさんの、協力をあおぎたい。 ゆっくりやりましょ。 |
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2005/909/04 2日、小室等が講師を勤める「学校ごっこ」に出席した。 当日のテーマはアメリカンモダンフォークと日本のフォークの接点をさぐるものであったが、 「街と飛行船」も話題になり、同時に出席していた四角佳子を加え、三人でこの歌を歌った。 どうやら、このベージの最初にある歌詞がオリジナルらしい。 つまり、「まるで六文銭のように」で最近歌っているものが、オリジナルということである。 |
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2005/11/10 懐かしいことに、このページをごらんになった、 当時の六文銭のマネージャーだった牧村憲一さんからメールがあった。 「街と飛行船」について、語ってくれた。 非常に興味ぶかい話である。 以下。 |
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自分で書いた(「唄の市 第1集」)ことを忘れるほどの遠い日の話ですが、 思い出せること、知ってることを以下に書きます。 あくまでも私の知る話ですので、事実かは保証しません。 1970年9月16日の「小室等9月16日のコンサート」は、 キングレコードの三浦光紀さんの私設アルバイトをしていた私は、 上条恒彦さんのマネージメントをしていた、オガタ・ステージに預けられます。 (なにせバイト料のないバイトでしたので)そこの緒方さんが、 小室さんのコンサートをやりたいとおっしゃいましたので、 小室さん宅に一人で伺い決めたものです。 ここでの(「唄の市」のライナーの文)小室さんの発言は テープを聴きながら書いたと思いますので、間違いないと思います。 同じく1970年11月ごろに編集された、 この「唄の市 第1集」に収録されているヴァージョンは その9月16日の完成形(同じ詩)だと思います。 エレックはインディーズですから、放送禁止はされても、 発売中止は関係なかったのです。 レコ倫はメジャーの自主規制ですから。 9月16日時点での小室さんの「実は未だ全部・・・」は曲のことであって、 詩ではないと思います。 さらに、翌年5月リリースの 「小室等ファースト・アルバム」に収録されるはずだったスタジオ録音は、 正確には放送禁止歌ではなく、レコ倫の裁定によると歌詞変更、 または発売中止で、もっときついものでした。 これは後年私がレコード会社で、立場的にレコ倫の資料に触れる機会があり、 過去の検討作品一覧で発見し読んだもので間違いありません。 理由欄には 「リューマチも小児マヒも 曲がった添え木に リボンで・・・・ まま子も みなし子も・・・ (当て字は当時キング・レコードが提出した資料の書き写しだと思います)」が、 「精神的肉体的弱者の心情を逆なでしている」と、 1971年3月期に意見・指摘内容として提出され、 レコ倫参加のキングレコードはそれを受け入れ、 自主的に、いわゆる発禁処理をしたものです。 当時の担当の三浦さんの怒りと落胆振りを思い出します。 以上、牧村憲一氏の話 |
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