もしも・・・(遥かな愛) |
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この歌は、誕生するまでに様々な障害が待ち受けていた。 その理由は、まずドラマの主題歌になった、そのこと自体にあるのかも知れない。 実は、小室と、ある演歌歌手のために書き進めていたのが、これだ。 小室は同時期に、のちにこの歌をエンディングテーマとして採用したTVドラマの、 音楽を担当していた。 僕は『遥かな愛』と題名のついた(この事実についてもあとでふれる)この歌のほかに、 主題歌の候補があったのかどうかは知らない。 ところが、ドラマの放送日も差し迫ってきたある日、 この歌を、その演歌歌手にまわさないで、主題歌として使いたいと言ってきた。 ついては歌手も、若手の女性歌手だという。 小室が承諾するのであれば、と僕も返事をした。 しかし、それで一件落着とはならなかった。 まず、主題歌として流すには長すぎるので、曲の構成を変えてくれという。 こそこから、小室の四苦八苦が始まったらしいが、 僕が直接見たわけではないので、想像しているだけだった。 ところが、高みの見物をきめこんではいられない事態に、じきになってしまった。 |
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当然のことだった。 曲の構成を変えるということは、歌詞もまた分断されてしまうにきまっている。 この歌詞を読み流していただくと、おわかりのように、 全体が時間の流れとして書かれている。 つまり、歌詞を組み替えるのは、非常にむずかしい歌なのだ。 たとえば一番の一、二行目と、四番の三、四行目をくみあわせろ、 というような、要求だった。 いや、命令というか・・・。 僕は当然ことわった。 責任者が、練習スタジオにまで、やってきて僕をくどく。 僕は、できませんと、内心主題歌からはずしてもらう方向ばかり考えていた。 それでもなんとか、解決策はないものかと、思案していたら、いい手を思いついて、 翌日さっそく先方に、事務所から連絡してもらった。 つまり、原作を及川にして、 そのプロデューサーの名を補作詞としてもらおうという案だった。 これなら、作詞者としての責任も、少しはとれるだろうという、僕の読みだったが、 けられた。 むこうは、最低限の僕自身による改作を要求してきてた。 その日から、こんどは僕の呻吟がはじまったのだった。 結果は、僕は一行も変えることなくすませた。 ただし、放送用に歌詞の入れ替えをした。 残念ながら、その結果、意味のずれた箇所、風景の不鮮明になった箇所もできたが、 それは、CDで、フルバージョンを聞いてもらえたら、解決する範囲と思った。 録音前日、どうやら最終稿をとどけられた。 |
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はじめにふれたように、この歌のタイトルについても記しておかねばならないだろう。 結論を先に言うと、この題名は僕や小室がつけたものではない。 当然、相談があるものと思っていたので、のんびり構えていた。 だから『遥かな愛』となり、盤ももうできあがりました、との事後報告をうけたときは、 少なからず驚いた。 以後今日まで、レコード会社から、このことについての釈明などはいっさいない。 こういった音楽産業の裏話をここに書いたとしても、 この歌の価値をさげることにならないだろう。 むしろ、こうして、この歌は僕が守ったと言う自負もある。 なので、僕自身のこの歌のタイトルは『もしも・・・』でしかない。 そうして、以前曲名というものの分類を試みたことがあるが、 『もしも』だったら、その中の典型的なパターンだということである。 他に考えろといわれたら、考えるけれどね。 ともかく『遥かな愛』という、おきて破りには恐れ入るし、 まあ、作詞者にはアリエナーイ発想であることは、明白である。 いいんだか、わるいんだか・・・。 |
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ここまで長々と、曲の周辺状況を書き連ねてきたが、やっと、短い本題にはいる。 掲示板で、宮澤賢治の妹、としこを亡くしたときの詩「無声慟哭」などに印象が重なる、 との指摘があった。 それは、ちょっと買いかぶりすぎデス、と言わねばなるまい。 という、最大の理由はこの「もしも・・・」は、 あくまでもSONGとしての旋律、リズム、和声を得ることにより、 とりあえずながら歌として完成したとみなされる立場にあるからだ。 宮澤賢治の詩は、たとえ他者の視線にさらされることにならななかったにせよ、 文字として完結した作品である。 また、とりあえずながら、と但し書きをつけたのにもわけがあって、 五線紙上の歌詞、譜面は、歌うためのテキストにすぎない、という考え方が、 僕にはよりぴったりくるからである。 ただもし共通するにおいがあるとすれば、 それは、今風ではない「直球しょーぶ」がどちらにもあるからだとは思う。 今風ではない、と断定するのもちょっと苦しいのだけれど、 つまり、何かの間違いでヒットしちゃったら、突然今風ということになるわけで、 えっ?余計な心配するなですか・・・たしかに。 でもまあ、この歌の言葉遣いも、 現在テレビなどからきこえてくるポピュラー音楽の主流たるものとは、 程遠いような気もするし、この場合は、断定もゆるされる範囲か。 |
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もうちょっと、今風ではない、といういいわけをおいかけてみよう。 たとえば、 花を抱きしめ♪ 悲しみじゃない、涙をそえて♪ などが、ストレートに使われるのは、現在POPSというより、演歌の独擅場だろう。 このあたりの言葉遣いは、てれるのがフツウであって、 演歌的な旋律をともなう場合に、かろうじて許される範囲か。 だから、「もしも・・・」はもしも?受け入れられるとしたら、 小室の作曲もけっこう演歌的なのかもしれない。 字面でみると、歌うのはソートー辛いんじゃないかと考えているあなた。 だから大丈夫です。 演歌を特に好きなわけじゃなくても、けっこうマジに歌えます。 カラオケやさんでは、ぜひ、と宣伝態勢に入ってしまった。 話をそっちにもっていってしまったが、実は僕は、カラオケが大のにがて。 歌をなぜ伴奏に合わせて歌わなくちゃならないのかわからん。 |
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この歌詞が、うたとして成立しているのはまずは演歌的だからだ。 あれっ、 あたりまえだった。 この歌は、ある演歌歌手が歌うことを前提に作られたと初めに書いたではないか。 いえ、これ自分にいっているのだ。 うっかり、これを結論にするところだったので。 あっ、いいのか? そして「演歌的」を連発しているのだから、それを定義するのが礼儀かとも思うけれど、 ここでは、ばっさり割愛。 僕は1995年に半年間、賢治作品と付き合った。 初夏に結城美栄子さんの陶器の人形作品展で、賢治作品を作曲して歌った。 教科書で紹介されている作品程度しか知らなかった僕は、 賢治の作品にはじめて触れたようなものだった。 そして、引きずり込まれた。 もしかしたら、誰でも一度は罹るらしい『賢治びょう』だったのかも。 ことのついでに、 宮澤賢治の言葉には、演歌のにおいもちょっとするのだけれど、と書いたら、 どなたかのヒンシュクをきっとかうのでしょうね。 いえ、まだ言ってませんってば。 |
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