海賊の歌

歌のはなし 曲名 公表作品 作詞者 作曲者
076 海賊の歌 六文銭メモリアル
別役実 及川恒平
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2/4拍子  ‖:  E :‖

   E  ≒   C#m  B7    E  ≒
もし かしたら  俺は  そのむかし

 E   ≒   C#m B7 ≒  E   ≒ 
片目のつぶれ た  海賊だっ た  
 
 E   B7    E  B7    ≒  E  ≒ 
月夜に 帆を上 て   銅鑼を 鳴らして

   E  ≒   C#m   B7  E 
もし かしたら 俺の    船 は

E  ≒  C#m B7   ≒   ≒ 
狼 のよう に   三日 三晩 も

E     B7  E   ≒
獲物を  追っ た         
   C#m  ≒  C#m ≒ B7 ≒   C#m ≒
もし かした ら 俺は   強か ったか ら

 C#m  ≒  C#m ≒  B7  ≒  C#m ≒
闘って  一度 も  負  けな かっ た

   E    ≒    B7   ≒ A  ≒  E  ≒
もし かした ら  俺 の船 の  白 い 帆は

 Em ≒  B7 ≒   E B7  E  ≒ 
血煙 で いつ も あ か かっ た   

E   ≒   ≒   ≒

   E    ≒  C#m B7  ≒  E  ≒
もし かした ら 俺は  年を 取っ て

   E    ≒     ≒  ≒ 
もし かした ら  俺 の  船 は

E  B7    E   ≒ 
もう  沈ん だ


E  B7    E   ≒ 
もう  沈ん だ


E  B7    E    
もう  沈ん だ


 ある日、演劇部の先輩に学校のそばの喫茶店に呼び出された。
ぼくのかよっていた学校は渋谷にあって、そばといえば渋谷になるわけだが、
あんなに在る喫茶店でも、部室がわりとなると行くのは限られたいくつかだった。
 ストライキ、ロックアウトと学校としての機能はまったく果たしていない校舎で、
ぼくらは、なんの未来図も描けずに、
しかしいたってのんきに構えてくらしていたときだった。

 学校の外のプロの劇団にも所属していた、その先輩Fさんは言った。
「君は、演劇部の活動を今後つづけられると思っているのかな。
外の劇団でやってみないか。
ちょうど、歌える出演者を捜しているんだ、こないか。」
 多分、ぼくは、あんまり考えもせず、
「はいっ」と答えたはずだ。

 その時の気分をかすかにおぼえている。
まず、F先輩を尊敬していたので、声をかけてもらったただけでも嬉しかったのだ。
何せ、下宿の家賃滞納で追い出されたあと、
そのFさんの下宿に毎週一度は泊めてもらって、
みっちり、演劇論を聴かせてもらっていた。
ついでに、銭湯にもつれていってもらったりもした。
 当時、アンダーグランドシアタァ運動はやっと演劇の大きな流れとなりつつあった。
 F先輩は、そこの演出部に所属していたが、
すくなくとも、学校の演劇部程度の役者志望者より、数段演技もうまかった。
その彼から、声をかけられたのだから、それだけでも快諾する理由は充分である。

 そして、いくらのんきにやっていたとはいえ、演劇部の活動もままならず、
しかし簡単には、その状況を脱出できるほどの力もない。
そんなぼくが、一条の光を、その誘いに見てしまったのもしかたがなかった。

 翌日、ぼくは、Fさんの後ろについて、新宿の稽古場を訪ねた。
ギターをかついでいた。
伊勢丹デパートの裏にあったピットインシアタァという小さな劇場の二階。
ぎしぎし音をたてて、いまにもこわれそうな階段を上っていった。
窓からの光の入りにくい、暗がりの中に、背の高いやせた男がいた。
別役実さんだった。
 もちろんぼくは一方的に知っている。
それまで、この劇団の上演した「象」も、俳優座小劇場で見ていたし、
実は、ちょっと前まで、ぼくは別役作「門」を学内で演出していたのだ。
どういうわけか、途中からぼくは役者に回り、一つ上のある先輩が演出になった。
そんな、いい加減なことがあるかと思われそうだが、実際の話だからしかたがない。
「君には、港の歌を歌ってもらおうと思っているんだ。
都はるみの演歌とか、あとシャンソンにも、そんなのあるだろ?
ちょっと何か今歌えないか」
とか、言われたのだ、そのとき。
ぼくは、もうその場で歌ったものなど覚えていないが、
ともかく、ほめてくれて、
「じゃあ、通ってきてね。
君の歌うものは、なにかみつくろっておくから。」

 翌日から、ぼくは新宿の稽古場に通うことになった。
おもえば、これが結果的にフォークシンガーになるきっかけだったのだけれど、
もちろん、思いもよらなかったのだ。

 当時アンダーグランド演劇の台本まで、掲載する演劇関係の雑誌は、
「新劇」「テアトロ」「悲劇喜劇」が、代表的なもので、
この三種は書店で手に入れることが出来た。
ぼくが、この時覆面の歌手として出演して歌った「カンガルー」も、
少し前に掲載されていて、それは読んでいたが、
初出のその台本には、実は“覆面の歌手”はいない。
別役さん自身の演出になった、このピットインシアタァでの公演時に
創出された役柄なのだ。

 まあ、ぼくのために作られたヤクと言っておこう!
 稽古場がよいがはじまった
数日たってもまだ歌う歌が決まらずにいた。
その日、別役さんがぼくに言った。
「及川くんは、歌を書いたことはあるかな」
はあ、とかなんとか、間が抜けた返事しかできなかった。

「実は、劇中歌は、ぼく自身が歌詞を書こうかと思いはじめたんだ」
別役さんが、とんでもない事をいいだしたとまず感じた。
しかし、直後のあの早鐘のような動悸はいったいなんだったのだろう。
ぼくは、確かに、歌を書きます、と言ったのだ。
だから、必ずしも、危機に陥っての動悸ではなかったと言える。
実際のところ、それまでフォークソングまがいのものを、
数曲つくってみたことがあるにすぎなかった。
にもかかわらず、ぼくの返事は、作ります、ときっぱりしていたのだ。
あのやりとりで、もし自信ありませんとかなんとか言っていたら、
海賊の歌はなかった。
すくなくとも、ぼくは歌を書くことのきっかけを逃していたのは確かだ。

そして数日後に、別役さんから、
400字づめ原稿用紙に書かれた歌詞をもらうことになるのだ。
別役さんは、稽古場の付近にある「小鍛冶」という喫茶店で、
それらの歌詞を書いていたらしい。
海賊の歌、お月様の歌、誰かが死ぬとの歌。
題名は無かったから、便宜上こう書いておく。
 参考までに、どんな時代だったかを一方から、ここに記しておきたい。

まだ沖縄が日本に返還される前、世は混沌のまっただ中。
「騒乱罪」が適用される事になった、新宿駅での学生、市民のデモがあった。
西口では、フォークゲリラが活動していた。
フーテン族といわるモノたちがたむろしていた。
ピットインシアタアでは、別役実の「カンガルー」、唐十郎の「続・ジョンシルバー」
たしか、劇団日本だったと思うけれど、故・土方巽の舞踏を含む出し物などが、
曜日ごとに公演されていた。
今の西麻布、材木町か霞町の坂途中に自由劇場は出来ていた。
この自由劇場の主催者、佐藤信が黒テントをつくったのは、その後。
東由多加の東京キッドブラザースはまだ、日本に帰ってきていない。
鈴木忠志、劇的なるものをめぐって、で白石加代子がデビューした。
つまり、鈴木忠と別役実が袂を分かったのはこのころ。
そう、当然寺山修司の天井桟敷は、はなばなしく活動していた。
まだ、渋谷の並木橋に劇場があった。
小椋佳、カルメン・マキとは当時面識はないけれど、
この並木橋の劇場に出入りしていたのだろうか。

ちなみに、ぼくの初舞台は、自由劇場での演劇部公演。
安部公房の「制服」という芝居の学生の役。
1967年の夏。
ぼくがその役を演じたきっかけは、普段学生服を着ていたから。

 もちろん「雨が空から降れば」なんて、まだ誕生する前だ。
小室等が、唐十郎の紅テントの芝居に曲を提供していたのを知ったのは、
あとのこと。
「雨空」誕生前後の話もはじめるとながくなるので、いつか。
 海賊の歌、の音楽的な解説に入る前に、書くべきことがたっぷりあった。
といっても、ここまで書いたものも、ほんの一部にすぎない。
読み手が興味をもってくれるかどうかを抜きにすれば、
ずいぶん長いものが書けそうだ。

 まてまて、海賊の歌。
別役さんには、歌によくある一番、二番といった考えはあまりなかったと思われる。
ぼくもなんのふまんもなく、渡された歌詞の流れのとおりに曲を書いている。
2/4拍子で採譜しているが、いわゆるマーチ系の音楽ではない。
4/4拍子ですすみつつ、ときどき2/4拍子がまじるといったほうがいい。
ぼくはひとりで歌っていたので、なんの不都合もなかったけれど、
後に、六文銭でレパートリーとして取り入れたときは、
メンバー全員が苦労していた。

 ところが四半世紀をすぎて会った田代耕一郎というミュージシャンが、
この曲を正確に演奏できた。
彼は多分、中学生ぐらいだったんじゃないかな。

 わざわざたいした音楽的な意味もなく、むずかしくなっているものを、
少年が、熱心にコピーしていたのだ。
罪深い。

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