歌のはなし 曲名 公表作品 作詞者 作曲者
075 地下書店 地下書店
糸田ともよ
及川恒平
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(1)
     A          F#m     Bm7        E7
たそが れの 地下書店-に   いっつうの メールが届 く

    A          F#m     Bm7 / F#m   A
多分 もう 行かないと い う     夢の つづき 短い言  葉

     D      F#m      G  / Gmaj7  A
ほつれ た つばさ は     知らな い   本    の

    Bm   F#m     Bm7 / C#7  F#m    D7
しおり に  使っ-て    遠い棚に も ど    す


(2)
    A          F#m       Bm7        E7
階だ んを  数えて登 る    ありふ れた 癖だとして  も

     A        F#m     Bm7  /  F#m   A
目のま えの たった一段     崖だったら  数えられな  い

     D      F#m      G  / Gmaj7  A
なにげ なく つばさ を      捨て た  けれ   ど

   Bm     F#m       Bm7 / C#7  F#m    D7
残っ た  ひとつ は     このま ま  忘 れた    い 


(3)
     A        F#m     Bm7         E7
抱きあ えぬ うおの姿-で   巡り会い  はぐれるま で

    A        F#m      Bm7  /  F#m   A
祝ふ-くの  雨の拍手に    わるぎもなく 耳をふさい   だ

     D       F#m      G  / Gmaj7   A
つめた く  しびれ た      うお の   尾ひれ   が

     Bm     F#m       Bm7 / C#7  F#m    D7
まぼろ しでもつばさ に    変われ ば  重       い 



     A          F#m     Bm7        E7
たそが れの 地下書店-に   いっつうの メールが届 く

    A          F#m     Bm7 / F#m   A
多分 もう 行かないと い う     夢の つづき 短い言  葉



歌のはなし、今年最後のページ更新はこのSONGにしよう。
秋に出来たSONGである。
それからもう何度もライブで歌ってきた。
聞き手にどう受け止められているのか、気にならないわけではないが、
このSONGは、それ以前に、届いてほしいという願いがすである。
もっと、じこちゅーに言えば、届かないんだったら仕方がない、
といったところか。
 こんな、わがままが、必ずしも、いつも成立するわけもない。
それどころか、空振りに終わる確率はひくくないだろう。
 
 そうして、このSONGは空振りに終わっていない。
こうも声高に言い放つのには、もちろん訳がある。
ソウデス、作者の糸田さん本人に、イイデス、
と言ってもらえたからなのだっ。

 さて、ここまではいい。
順風満帆の船出と言ってもいい、新人にしての開幕投手かもしれない。
だが、その先、相手選手たちの研究を上回る成績を残していく実力が、
はたしてあるのかどうか。
SONGといえども、いずれ独り立ちして歩んでいかねばならない。
有能な作家、シンガーの手になったとき、
SONGが、そうなる確率は高くなる。
そうして、時代にふれる編曲がほどこされたとき、それは一層高くなる。

 ところが、ぼくの作戦は、
かならずしも、そのセオリーを受け入れているのでもない。
まず、作者、糸田ともよの世界を第一義とする。
その結果、
時代と触れあうための、言葉をあえて選択するということは、しない。
本音を言えば、この「地下書店」というSONGには、
すでにそんな時代性が、
つまり、ポピュラリティが含まれていると、思っている。
 これは、ここにある「ポピュラリティ」を、
音楽を聴くがわで発見してください、
と開き直っているのにほかならない。
ぜんぜん、カワイクナイのである、きらわれるのである。
 
が、しかし作者や歌い手がきらわれても
耳に残るSONGはあるだろう。
まだ、言っている・・・。
 やがて、そのSONGの周辺域までふくめて、
あたかも事実のように容認されていく風景を、
ぼくらは、何度も目撃してきたではないか。
 なにも、フォークソングだけの話ではない。
なにも、音楽だけの話でもない。
そう、なにも文化の話ばかりでもない。
そうやって、「史実」が積み上げられていく様を、
僕の生きながらえてきた、
わずか五十数年の間にも充分に目撃している。

 さて、そこで。
ぼくも、そのおんけいにあずかりたいと、虎視眈々と狙っているわけだ。

 と、家庭の事情はこれぐらいにして、このSONGの説明。
まず、糸田ともよの歌集「水の列車」から、
この「地下書店」に拉致したことばを含む歌を数首、あげてみる。
各歌の末尾の( )内は「水の列車」中の章の題名である。

階段を数えてのぼる癖 死後も 黄昏いろの地下書店から (幻影肢)
受話器の声しばし途切れて 雪の音 あるいは翼を片づける音 (水の列車)
信号機の充血した眼に疎むまま時代(とき)は流れて見知らぬ街角 (幻想烽火)
抱きあえぬ魚の姿でめぐりあう驟雨の拍手に拉ぐ水駅 (幻想烽火)
階段のひとつ断崖 踏みはずし縋れば神のネクタイは瀧 (水の列車)

  糸田ともよ「水の列車」より、
このSONGに直接あらわれたことばを含む作品群である。
むろん、この歌集の全体からさまざまなインスピレーションを受けて、
SONG「地下書店」になっていった。
あらためて言う必要もないだろうけれど。

 ぼくが、
これらのことばを使ってSONGとして成り立たせようとしたとき、
かなり意識的に選択、あるいは、こだわったことがある。
 それは、このSONGの聞き手の思い描く場所は、
街の中であってほしいということだった。

その訳をここに書くのが順番というものだけれど、
実はぼく自身が、そのあきらかな理由がわかっていない。
 ただ、このSONGを歌っていく中で、
やがてわかってくることがワカッテイル。
みょうに、そんな自信があるのだ。

 単に、ヒトがわのためと言うよりも、
このSONGが独り歩きしはじめる時がきたとして、
そのほうが、かわいがってもらえそー、ということかなあ。
親が生まれてくる子供の名前を、考える気持ちと重なるのだろうか。
なにか習い事をさせて、
きょうよーを身につけさせようという熱意とダブるのだろうか
 と、想像しててはみるが、実際のところ、まだわからない。
あっ、
このあたりの親ゴコロは、すでに糸田ともよのことばを第一義とする、
と、気どって言い放ったのを、忘れているのか・・・。
どうせならもっと、気の利いたいいぐさを考えるのだったな。
SONGには歌い出しに、まるでスキーのジャンプ競技のような、
飛距離を感じさせるものがあり、
 このSONGは、その種の分類に入りそうだと思った。
最初に歌ったときにすぐ思った。
 ぼくの小さな経験でいうと、
「面影橋から」というフォークソングが、それだった。
あとで、すこしずつ、ああ、じつは飛距離があったのですね、
と訂正されていくSONGもあるから、
今ありそうだからなんだというのではないが。
 ないよりはいいか、とした上で、
かつ飛型点が高ければ文句ないのだけれど、
この飛型点というやつは、それこそ、主観の問題もふくまれたり、
なかなか絶対というわけにもいかないので、やっかいだ。

 飛距離と言ってみたこの感覚は、
かならずしも、だからいい歌はすべてこうだというのではないが、
説明は必要だ。
 たとえば、シャンソン・ド・フランセの中には、
イントロ部分、音程間のあまりない、
ほとんど台詞状態で入ってくる名曲がある。
そのまま、エンディングまで、そんな状態で言ってしまうものだってある。
 ただ、途中からスーッと離陸するSONGで、かっこいいものは多い。
だから、曲アタマからでろうが、曲中であろうが、心中であろうが、
離陸というか、飛距離というか、
この感覚はいくらかの利点にはなってはいるのだろう。

 「地下書店」については、いずれまた書きくわえるときが来るはずだ。
 


(1)
たそがれの地下書店に 一通のメールが届 く
多分もう行かないという  夢のつづき短い言葉

ほつれた翼は 知らない本の
しおりに使って 遠い棚にもどす

(2)
階段を数えてのぼる ありふれた癖だとしても
目の前のたった一段  崖だったら数えられない

なにげなく翼を 捨てたけれど
残ったひとつは  このまま忘れたい 

(3)
抱きあえぬ魚の姿で 巡り会いはぐれるまで
祝福の雨の拍手に  悪気もなく耳をふさいだ

冷たくしびれた 魚の尾鰭が
まぼろしでも翼に 変われば重い 


たそがれの地下書店に 一通のメールが届 く
多分もう行かないという  夢のつづき短言葉
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