きんのうお

歌のはなし 曲名 公表作品 作詞者 作曲者
070 きんのうお みどりのせみ
及川恒平 及川恒平
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D            Bm   D      A7
 かわ には きん の  うお 

B♭         Gm  D     A7 
 もり には ぎん の つき  

D         Bm   D  / Gm  B♭7   E♭   ÷ 
ながい ゆめ みてろ  しずかに    ねむ  れ      



E♭         Cm   E♭  B♭7
 かわ には  貝の  から

B        A♭m  E♭  B♭7
 もり には 雨の  ほね   

E♭       Cm   E♭  / A♭m B7    E     ÷
ながい ゆめ みてろ   しずか に    ねむ  れ



E         C♯m   E   B7  
 かわ には 雲の   まち   

C        Am    E   B7  
 もり には 影の  とり    

E        C♯m   E  / Am  C7    F      ÷
ながい ゆめ みてろ   しずかに    ねむ  れ 



F           Dm   F    C7 
 かわ には ゆれる  ひと  

D♭      B♭m  F   C7 
 もり にも ゆれる  ひと 

F         Dm   F  / B♭m C♯7 F♯   ÷
ながい ゆめ みてろ  しずかに    ねむ れ  



F♯            D♯m   F♯     C♯7
 かわ には きん  の   うお 

D          Bm  F♯     C♯7
 もり には ぎん の つき  

F♯       D♯m   F♯ /  Bm   D7    G  
ながい ゆめ みてろ   しずか に     ねむ  れ      

  この曲の売りは、ワンコーラスごとに半音ずつ上昇していくところかと思う。。
たぶんぼくの独創ではないけれど、完成したときは、
それがうれしくて長い時間歌っていた、歌詞の意味とぴったりと自己満足して。
 発想してから出来上がるまで、数年間を要した。
時間をかければいいというものではないことは、承知しているつもり。
「ニジモウセンゴケ」という、最短記録モノもあるが、
時間をかけないほうがいいというものでもないことでもないだろう。
 でも、「きんのうお」のようにやたらと時間がかかると、全体を見渡すひまがない。
できあがったときは、すでに遠い昔に作ったものという気分なのだ。

 CDアルバム「みどりの蝉」の中でこの一曲だけは、
ぼく自身による盆踊り用?の編曲。
他の曲は、ほとんどぼくがギターと同時に歌ったテイクに、
あとでウォン氏がアレンジを施したもの。
 
 つい先日、ぼくの新しい曲を小室さんにギターで参加してもらう機会があった。
「にぎやかな木々」という歌だけど、感心された。
ありえないコード進行が含まれているそうで、歌いおわったあと、
そのまま観客の前でその部分を繰り返していた。
 居合わせた人は、不思議なほどの彼のコダワリカタだったと思う。
ぼくが代わりに弁解するのも変だが、
あれは、おまえ、あいかわらずだよなあ、という気分がたっぷりだったのだ。
 その小室さんが、この曲の存在を知っても、たぶん黙ってとおりすぎるんだろうな。
つまり、絶句というやつ。
 シンガーソングライターという言葉は、すでに死語かもしれないが、
ねこもしゃくしも、SONGを書き始めた時代があった。
当然、ぼくもそのひとりというわけだけれど、
当時の職業作詞家、作曲家からみると、我慢ならないレベルだったらしい。
今なら、ある程度はそんなプロの方たちのなげきにも同情できるのだが、
そのころは、歌を作るのがおもしろくて、そんな罵声、怒声など、
ぼくにはまるで聞こえなかった。

 しかし、すでにその当時、そんな声をちゃんと聞いているばかりか、
理解しているコチラ側の人間もちゃんと存在していたのである。
 ソウデス、小室等。
 彼の作品は、フォークソングという範疇の作品としてはめずらしく、端正な容姿である。
ぼくと去年作った「遥かな愛」の、ちょっと聞くとそのまま通り過ぎてしまいそうな所に、
実にするどい作曲がなされていたりする。

 プロの流行歌の書き手のなげきが、今ならわかると書いたのは、撤回。
その後もぼくは、なげかれそうなものをいくつも、そしてずっとつくっています。
これも、そうだしね・・・。
 歌をつくることが、あたかもきまりのような、フォークの世界の中で、
なくなった高田渡は、おもに他人の詞を歌うことが多い少数派である。
彼の場合はもちろん、書けないのではない。
彼の作詞作曲でいいものはたくさんある。
本人に確かめる機会は失ってしまったが、
かきゃあいいってもんではないでしょうと、つねづね思っていたふしがある。

 シンガーソングライターという「システム」が、
流行装置のひとつに過ぎないと、みやぶったとたんに、
いいものは探せばあるわいとばかりの方角に歩いていった。
そして、文学的なあじつけがあれば、どっぷり流行歌のものよりありがたがる、
といった風潮にも、この人はそっぽを向いていた。
 「鮪に鰯」「ブラザー軒」といった名曲は、そんな中から生まれた。

 詩の読み手として、この高田と、そして小室に、ぼくは非常に近いものを感じている。
文学系にも、流行歌系にもありがちな、こじゃれた表現にはほぼ反応しない。
精確にいえば、無視するか、切って捨てる。
ほとんどの作曲家、というか今の平均的な日本人がよろこびガチな言い回しを、
言い回しが先行している詩を、拒否する。
ただ、作曲段階において、二人は決定的なほどに、ちがう選択をしていく(いった)。

 かたや、自分という歌い手のために、
かたや、あらたな流行歌をめざして。
 「きんのうお」の歌詞について思いつくまま。
 どの歌も自作のものは、出来上がっていくまでのプロセスを、
おぼろげながらにせよ憶えているものだけれど、この歌には、ほとんどない。
だいたい、きんのうお、だなんて、キンギョのことじゃないかと、まず自分ても思う。
いやそうではないのだと、確認作業がいちいち必要なのだ。
そして、やっぱりきんのうおなんだ、キンギョなんかじゃないんだと、いちいち納得する。
そんなまどろっこしい過程を経て、なんとか歌っているというわけだ。

 この歌詞の流れにのれば、何コーラスだって作れる。
理屈上は、鉄道唱歌みたいに何十番でも可能だ。
ただし半音ずつ上がっていく曲は、歌い手にとってはけっこうプレッシャーがあるだろう。

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