なぎさから

歌のはなし 曲名 公表作品 作詞者 作曲者
068 なぎさから しずかなまつり
及川恒平 及川恒平
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D6   Bm 
朝の 海

Em/Em+F Gm  Dm  A7
誰も拾わ ぬ  貝殻 は

D6 Bm  Em/F♯m   D6  
夏の光と なって飛び去る


D6    Bm 
打寄せ る

Em/Em+F Gm  Dm  A7
波の形  の そのままに

D6  Bm  Em/F♯m  D6  
黄泉の国まで つづく足跡 


D6    Bm 
渚 か ら

Em/Em+F Gm  Dm  A7
遠く離れ て  まだ泳ぐ

D6  Bm  Em/F♯m  D6  
さかなの頃を思い出しつつ


D6    Bm 
夕暮れ て

Em/Em+F Gm  Dm  A7
水際に残 る  砂の 城

D6   Bm  Em/F♯m D6  
夢のふかみで 焔に染まる  


 この歌は、ピアノの伴奏で録音されたのち、
僕は自分の弾き語りとしても、何度か演奏、歌唱している。
そして変則チューニングを使用している。
この場合は、六弦から、D,A,D,F♯、A,Eとしている。
開放で弾いても綺麗な響きだけれど、
それなりに左手の運指たのしんでいた。
のに、のに、さっきギターで確認してみたら、すっからかんと忘れている。
どうしようもない。

 変則チューニングという手をはじめて知ったときは驚いた。
そんなハンソクワザが日中どうどうとまかり通っていたという驚きもまざっていた。
実際、変則チューニングが市民権を得てからしばらく経っても、
あれはどうも・・・と敬遠しているギタリストもいた。
ぜったいロビングをあげない、をポリシーにして、
ついにはテニスのインストラクターになったひとも知っている。

 フォークギターは開放弦の響きが美しいのだから、使わない手はないとおもうれど、
7フレット以上の高音部の音程がしっかりしているギターは頼もしい。
つい、そのあたりで弾きたくなるという気分は、なかなかいい。
 僕のフォークギターとクラシックギターは、そんな楽器なのであーる。
ヒケナイケド。
 
 先日のライブの会場でのこと。
終了後、例によって、さっきまで歌っていたものも聞いていた人も、
ごちゃごちゃになって、呑んでいた。
 どういう流れからだったかは、もう忘れたけれど、
 時として、詩人がそれまでの作品の定型詩化を図る現象があると話題になった。
たとえば宮澤賢治。

 それを衰退と看るのが、その場での多数意見になりつつあった。
というか、やや断定的になされた、あるひとの発言が、
そのまま場の考えとして肯定されかけて、僕はあわてた 。
 もしかしたら、現代詩の分野では、一般的な意見だったりするのだろうか。
そこまてではなくても、通りいい認識の方法として、定着しているのだろうか。

 そうですか?そんなものですか?
と僕は聞かざるを得なかった。
宮澤賢治の晩年の定型詩への改作は、
有名なものだから、ご存知のことと思うが、あの行為をどう見るかは、
簡単には結論づけられない、ちょっとネブカイものがあるような気がする。
 僕の見かたは、肯定的だ。
というか、ドボルザークの交響詩『新世界』に歌詞を当て嵌めたりしている賢治にとって、
そのような言葉遊びは、その延長線上にあったと思うのだ。
もちろん、遊びであろうがなかろうが、定型化をこころみるということを選択したのを、
この場合、問題にしているのは、わかっているつもりだ。
しかし、この辺には、まだ定型短詩第二芸術論争のわだかまりが、
残っているのかもしれないなと、深読みしてしまう。
 まさかと思わないでもないけれど、意外にほんとうだったりして。

 それにしても、賢治としては、自分のふとした言葉あそびが、論争の火種になるなんて、
そしてまるで、ある種の転向のように、後世、言われるようになるなんて。
 彼は、自分の作品を詩ともいわなかった本人としては、
それらの評価はいいめーわくなんじゃないのかな。
  もうひとつ、ちがう場でのこと。
酒が目の前にあるのは、変わり映えの無い夜ではあるけれど。
 現代詩人の某氏いわく。
俳句は私も楽しめるけれど、短歌は下の句の七七がねえ・・・。

 そう、これは偏見とかなんとかではなくて、短歌のもつ湿度が、
この方の表現とは相容れないものを、僕も感じていたので、
そうでしょうねえ・・・と、うなずかざるをえなかった。

 3月、札幌でのライブのことだ。
僕の歌詞を歌人の田中綾さんに、三十一文字に作り直してもらう試みがあった。
七七、ときっぱり着地したその言葉たちは、みごとに短歌であった。
そして、僕はそのことに、どぎまぎしたのだった。
 そこまで言っちゃっていいの、とか、
逃げ道無いじゃん、とか、
もうちょっと、乾かしてほしいな、とか、なんだか恥ずかしかったのだ。
 短歌苦手のこの詩人の感想と、オーバーラップするところもあるようだ。

しかし、時代はこの短歌の湿度を下げながら作品化する歌人たちを生み出している。
たとえば、荻原裕幸氏主催の『短歌ブァーサス』誌上にみられる作品が、
それにあたるだろう。
たとえば、枡野弘一氏はじめの「マスノ教信者」の作品も、そうかもしれない。
 そして今では、インターネット上には現在、たくさんのいわゆるウェブ短歌が発表され、
この、湿度ぬきに、おおいに盛り上がっているようである。
 ただし、一方では、それを苦々しく思っているかんけいしゃも、すくなくないようだ。
ウェブ上の三十一文字を、単なる感性の鈍化との捉え方さえあるのには、驚く。

 しかし、この短歌の世界でのたたかいへの感想として、
そんなにまでして、湿度の高い場所にいないで、かってにしてみたらと、
外側からいうのでは、なんにもならないのだ。
 わかってオルワイとの言い方が、かってしているがわからも、
ほしゅはからも、同時に聞こえてきそうだ。
 「なぎさから」は、お気づきの方もいるか(イテホシー)とは思うけれど、
31文字で、ワンコーラスが成立している。
 だから、なんだといわれるのは仕方がないとしても、ともかく31文字なのだ。
しかし、海のことを書いたからといって、水っぽいとか、湿度が高いとか感じるだろうか。
ムリダトオモウ・・・。

 やっぱりこれは歌詞なのだ。
短歌にある暗黙(もしかしたら当然)の、
上の句と下の句の響きあい、ぶつかり合いなどはなく、
なんとなく31文字あるものを短歌とは言わないのだ。
 いや、表面的には、それらのルールをあたかも無視したかのような、
優れた作品もたくさんあるのだけれど、
それは意図的な無視であって、シラナカッタ、ではないのだ。
 あっ、また詩と歌のほーに接近してしまった。

 旋律がついて、和音がついて、ナンボの世界の話は、
そちらでしてね、といわれるかもしれないけれど、
どうしても、団子になっておしゃべりしたい性格がわざわいしている。

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