終わりのない歌 |
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現在のシステムは知らないが、当時ドラマの主題歌を書く場合は、 あらかじめ荒筋や配役などを企画書のようなもので知らされた。 それをまず頭に入れて歌詞を考えるか、または出来上がっている曲に歌詞をはめていく。 前者を詞先(しせん)といい、後者を曲先(きょくせん)とよく言う。 時代が下るにしたがい、曲先が増えていったと思う。 「終りのない歌」は詞先だったと記憶する。 作曲の惣領氏は、ほかでは曲先の多い人だったので、曲先でもいいのにと思ったが、 製作者は詞先を選択した。 と、断定的に書いたが、ほんのすこし、曲先ダッタカモと自信がない。 だったら書くな、だけれど、この歌詞が曲先だったら出来すぎと、 手ごたえとして、自分でも思うので、そういうことにしておいてください。 1978年というと僕は30歳である。 すでに自分で歌うことは控えて、作詞家を目指していた。 と、いうか、すでにそんな立場だった。 曲がりなりにも、歌を書くことで生計をたてたいと思っていたので、 それなりに真剣だったし、少しずつではあるが、成果もではじめていた。 こうやって、テレビの主題歌も書くポジションにあったのだから、 不成功に終わったともいえないのだろう。 作詞家を志して歌を書きはじめたのではないが、 まあ、そんなところに落ち着くのだろうと漠然と思い描いてもいたのだった。 ところが僕の内部では、なにか得体の知れない違和感がうまれつつあった。 達成感とは程遠い失望が、じょじょに僕を支配していったのである。 |
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この主題歌を書いたのと前後して、 僕は「ペーパーランド」というフォークグループを作って、 同名のLPレコードアルバムを発表した。 そして、その直後、決意したことがある。 このグループの解散と同時に10年間は自分では歌わないというものだった。 10年間と周りの人に公言したのはたしかだが、どこか一生という気分もあった。 ぼちぼちと作詞の仕事はしていたが、僕自身はおそらく精彩を欠いていただろう。 誰が見ても、歌っていたころのほうが僕は、はつらつとしていたに違いない。 元気を売り物にする歌手ではなくて、その反対といってもいい歌い手だったとは思うが、 作詞家オンリーの時代の自分は、今でもどうしても好きになれない。 言葉をいじくりまわすことは、全然苦ではなかったのにである。 あたりの期待は、松本隆さんや岡本おさみさんに対抗できる歌謡曲を作れ、 というものだったと思う。 出来れば、阿久悠さんをしのぐ作詞家になってもらいたいと、 所属事務所では思ってもいたらしい。 しかし、なにかがちがっていた。 期待されればされるほど、僕の歌詞は失速していったのだった。 そんな中まず僕の確認作業は、自分がほんとうにもう一度歌いだしたいと思えるほど、 音楽が好きなのかどうかがあった。 それほどでもなければ、僕はおとなしく構成人員の一人として、 音楽業界に参加しつづけていけたのだろう。 しかし、音楽産業にかかわっているのは確かでも、それが自分の思い描く音楽とは、 ずいぶんにてもにつかぬ姿になっていると、自覚があった。 そして日ごとに、その思いは肥大していったのだった。 |
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説明すると、ついに今でも逃れていない僕の歌詞への一般的な評価がある。 コムズカシイというものだ。 指摘され続けたが、たぶん当たっている。 当時の(そして多分今でも)ポピュラーソングとして考えたとき、それは正しい判断だ。 僕はそんな評価を受けつつ、いずれは自分の書き方で突破できると、 ちょっとは考えてもいたのだった。 あ・り・え・な・い・・・ だから僕は今は、なるべくマスメディア的な音楽制作の場からはなれている。 というより、むこうが近寄っては来ない。 おととしの「蝉しぐれ」はめずらしいことが起きたのだ。 つまり、小室等がいなければ成立する余地など、はなからなかった。 その上、あんなメグマレタ歌づくりの現場でさえ 、僕にはまたまた納得できないことが起きた。 やはり、むいていないのだとしか言いようがない。 80年代に入りいよいよ僕の音楽はやせ衰えていった。 半ばにさしかかるころ、つまりは日本がバブル経済にうかれだした時期、 僕は経済的にもどん底を味わっていた。 90年代に入ったころ、もう音楽産業に舞いもどる気持ちは、すっかり失せていた。 なぜなら、僕は自分で歌おうと決めたからだった。 やはり僕は自分の音楽が好きらしいと、やっと納得できたのだった。 僕はまたギターの練習を始めた。 |
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「終りのない歌」は、そんな作詞家としての、それほど多くはない仕事のひとつである。 この歌が主題歌として使われたテレビドラマについてメモをならべてみる。 1978年 タイトル 愛がわたしを 番組名 木曜座 放送期間 1978/6/15 〜 1978/9/21 放送回数 15回 時間 木曜日 22:00-22:55 演出 竹之下寛次 脚本 小山内美江子 キャスト 近藤正臣、大原麗子、大出 俊、赤木春恵、名取裕子、江藤 潤 主題歌 惣領智子「終りのない歌」(作詞・及川恒平、作曲・惣領泰則) 解説 男性週刊誌の編集部を舞台に繰り広げられる、男女の愛と葛藤を描くオフィスロマン。 そうして翌1979年、同シリーズで「愛と喝采と」 十朱幸代/渡瀬恒彦/名取裕子 4.12〜7.5 (13回)♪ティナ「もうひとつの心」 をやはり惣領泰則作曲で書いた。 歌唱の「ティナ」とは惣領智子と日系三世タカハシマリコによるデュオである。 どちらも、惣領智子(ティナ)の圧倒的な歌唱力に支えられた歌である。 惣領泰則とは、当時たくさん歌を書いていたから、 その点でのコンビネーションに、自信はそれなりにあった。 惣領智子ともスタジオでの仕事はかなりしていたから、 出来上がりの予想図はかなり精確に描けていたが、 それが流行歌として、うけいれられるかどうかは、まるで自信がなかった。 そこそこのヒットになったのだから、よしとしよう。 |
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誰か 私を 抱いて 抱いて ♪ という言葉。 ここに僕はこの歌の歌詞としてのショーブをかけた。 惣領智子がいなければ成立しなかった。 当時の流行歌レベルで、この言葉を使うとすれば、 ちょっとしたお色気を意識したものだったからだ。 彼女が歌ったとき、僕の狙い通りに、女性の切実な情感が表現されたと思う。 かならずしも、受身な言葉ではなく、むしろ、きっちりと言い放つ強さを秘めている。 にもかかわらず、どこまでも女性的であるような。 そしてなにより直接的な言い回しでありながら精神性の高い言葉として。 |
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このころ、他にもいくつかドラマ主題歌を書いている。 予告というわけではないけれど、どこかのページで見かけた記事。 さわがしい楽園/りりィ(作詞・及川恒平/作曲、編曲・井上鑑 EP「さわがしい楽園」1978、−、CD「TWIN BEST」) 「お父さん、怖いよ…」の名ゼリフ、そう「野性の証明」です。コレはTV版の印象的なエンディングテーマ。ジャケットには「人間の証明」主題歌となっていますが、その枠は確か森村誠一アワーみたいな感じ(横溝正史アワーの続編みたいなの)で、枠としてのテーマ曲がこの歌だったと思うけど。「人間の証明」は見てた覚えないし…。 角川のメディアミックス商法のはしりで、映画公開とTV放映開始が同時期だったように記憶してます。で、ワタシはTV版が好きでした。映画では薬師丸ひろ子だった少女役の三輪里香(確か映画オーディションで2位)とかいう女の子って、当時のワタシより3つぐらい上だったと思うのですが、何ともいえない演技だったんですよね。健さんの役は林隆三、当時小学生のワタシが言うのもナンですけど、健さんより哀愁があったな。そうそう、肝心の歌はりりィ。及川さんの詩もいいし、鑑さんのクロスオーバー的な感じもシブい。そして何より、りりィの投げやりだけど都会の厳しい優しさがあふれたボーカルがいい、女神のようで。これは歌というより、ひとつの音楽作品として優れていると思います。 恋の破片が突き刺さったまま、街ですれ違う人がいる・・・とか始まる歌だ。 実は僕はもうすっかり忘れてしまった。 思い出したらとりあげてみたい。 |
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