ねこじゃらし |
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“作詞”の樋口さんは、数年前、ある現代詩誌の新人賞を受賞された。 この作品は、その受賞作の中の一編である。 だから、むろんメロディがつくことを想定してかかれたものではない。 この詩集を手渡されたのは、樋口さんの知人からである。 その新人賞の授賞式に上京されることになって、その場で披露したいのだという。 作曲する詩は、僕が選んでよいという。 現代詩とたんにくくるのはどうかと思うが、 もっと細かく分類したからといって、どうなるものでもなさそうだし、 詩の人口からして、現在はこれで仕方がないのだろう。 と、愚痴をいうのは、この詩集を読み出して、 ばくぜんとながらでも、現代詩に先入観をもっていた僕は一撃をくらったからだ。 もっと、言葉の観念側によりそっているものを考えていたのだった。 この方の作品は、いってみればブルースにあるような言葉だと思った。 もっともぼくは、木島始が日本語に訳してくれたものや、 レコードの歌詞カードで見ているにすぎないのだけれど。 |
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樋口さんの詩集の中から、「ねこじゃらし」を選んだ理由は、 今でははっきりとは思い出せない。 たぶん、いつもの直感で、SONGになりやすそう、がその判断基準だったと思う。 しかし、それから苦難の道に分け入ることになった。 作曲の過程を思い出してみたい。 この詩は、姉との昨日今日のやりとりと、幼少時代の日常を重ね合わせている。 じつはこの二枚の風景はぴったりとかさなりあうのだが、 音として考えると、これはまったく別の情感を注入する必要があるとわかった。。 音楽でのリフレインは、かならずしも、文章での効果と重ならない場合もある。 というか、この場合だと、樋口さんの詩的な世界をわかるためには、 ほとんど足しにもならないだろう。 二つの情景が完全にかさなることをリフレインや、旋律の近似性でしめすことにより、 はっきりと変化させるほうがいいと思った。 作曲と詩作との制作の方法の違い、位相の違いだと思う。 |
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具体的な作業としてはこうである。 庭のすみ・・・から、・・・こんなことあったね・・・までをひとつ。 スタイルブックを捲る・・・から、ページが捲れる・・・までがひとつ。 わたしたち、姉と・・・以下がひとつ、と大きく三つにわけられる。 そうして、庭のすみ・・・からの言葉のテンポを確認しつつ、分解していく。 この場合のテンポとは、SONGとして聞いたときに、 言葉の意味が伝わるかがまずあり、それを第一義に速度を決めていくのだ。 あくまでも、僕の場合でしかないが。 初めのことばのテンポがきまると、おのずと小節としての配分が見えてくる。 そうすると、どんなながさをもったフレーズかがわかって、 ひとつのフレーズのかたまりが、どのあたりまでをくくればいいのかがわかる。 この歌の場合は、庭のすみ・・・から、 ・・・消えそうで消えない、までが詩の意味の切れ具合からしても、 ふさわしいとわかる。 同じように展開していくといいのだが、 そういえば昔もこんなことあったね・・・という一行が、 微妙なポジションであることに気がつく。 つまり、この一行は、過去さ現在の橋渡しの役目をはたしているのだ。 これを見のがす手はない。 この部分の作曲ができれば、おのずと以下、 スタイルブックを捲る・・・からがわかってくる。 ここでは転調による効果をねらっている。 そうやって、わたしたち、姉と・・・から、また現実に帰ってきたとき、 最初のフレーズ感覚にもどって曲が成立すれば、成功というわけだ。 この曲の完成度はべつとして、手順としてはラストまでたどりつくことができた。 |
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但し書きをつけておく。きたい。 音楽をすこしかじった方には、かえってまわりくどいかもしれない。 ここまで、メロディという観念を説明ぬきで使ってきたが、 実はこの曲は、指定されたコードの中にある音を主につかう条件はややあるが、 歌いだしの音と着地の音がほぼ決まっているというだけで、自由にうたっている。 曲の間尺がきめられてはいるが。 わかりやすい例をあげれば、ある和音を合奏する中で、 リードギターがアドリブで演奏していることを想像してもらえるといい。 あれはあれで、ちゃんと約束事はあるのだ。 そしてもうひとつ但し書き。 ぼくの場合の作曲方法とことわってきたように、 もっとじっと言葉によりそって、音をひきだしていく作曲ももちろんあるし、 そのほうが多いのかもしれない。 ただ、 一定のリズムの中で弾き語りすること、 ぼくという専門的な音楽教育をうけていないものでも、なるべくうたいやすいこと、 を条件にしていくと、なるべくむずかしい音程や、変拍子はさけることになる。 それは譜面上、 単語ひとつひとつのイントネーションを完全には復元できないことを意味する。。 譜面上と限定しなくても、たとえば義太夫のような方法はとっていない。 実際のはなし、ぼくにはできないし、たとえばぼくでなくても、できないかも知れない。 西欧から入ってきたクラシックの作曲法では、今のところ、 どんな分野ででも日本語のひびきの再現は限界がある、 というのがほんとうのところだ。 認めるかみとめないか、それとも、どうでもいいことと考えるかは自由なのだけれど。 この歌は和製フォークてき、字余りソング、というのを、結論にしたい。 |
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