約 束 で す

歌のはなし 曲名 オリジナルシンガー 作詞者 作曲者
058 約束です 南高節とかぐや姫(たぶん)
及川恒平 小室等
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D     A    Bm   F♯m 
夕暮れどき  雲は菫の 匂いがする

A・Bm/F♯m    A・Bm/F♯m  A・Bm/F♯m    B7/E7
そ れ   は     つま し  い    あし た  の   まえぶれ

D/A    E7   A/Bm   F♯m/E7
公園で  街で   恋 人  たちは

A/Bm  F♯m/E7    A    ÷
時を忘   れ て    戯れる


D      A       Bm      F♯m 
時計台 から    夜空に十二の   音が溶ける

A・Bm/F♯m   A・Bm/F♯m   A・Bm/F♯m    B7/E7
す  る  と     小 さ  な     わ か れ  の    始まり

D      E7    A/Bm    F♯m/E7
家路をいそぐ    恋  人   たち   に

A/Bm   F♯m/E7    A     ÷
時  が や が  て    甦る


D     A     Bm      F♯m 
約束 で す   喋り 過ぎた 夜のように

 A・Bm/F♯m  A・Bm/F♯m  A・Bm/F♯m    B7/E7
いく ら   か   淋 し   い   気持ち  の    する時を

D         E7    A/Bm    F♯m/E7
捨てないで 下さい    恋 人    たち  よ

A/Bm    F♯m/E7     A      ÷
愛 する    日々と     同じように


 この歌は、僕がそれと知って書いた、おそらく最初のCMソングである。
なんのメーカーかは、一目瞭然。
えっ?、そうではないんですか。
つまり、そのお、時計のメーカーです。

 この後、CMのヒットメーカーになるつもりだったのだが、すぐ躓いた。
理由は100パーセント当方にある。
つまり、CMソング業界のみならず、音楽産業全体から、
その後、名指しに近い形で僕が指摘され続けたこと。
きっと、今でも。
それは、ムズカシスギル・・・であった。
しかし、この『約束です』が、ムズカシスギルだなんて・・・。

 本当は、この言葉を額面どおり受け取っているつもりはないと白状する。
真意は当然、売れない、であったのだから。
理由はどうであれ、その一点が勝負の業界では、僕の歌詞は通用しなかったのだった。
 多分、先方が口にしかけて、呑んだせりふは、ひとりよがりじゃ、タベテイケナイヨ。
たしかに食べていけなかった。
  では、わかりやすい、とは流行歌にとって、どんなものをさしているのか。
それは、その時代の最大公約数的な感覚をベースにしているということに尽きる。
それが意識的か、無意識かは問わないが。

 ごく当たり前のことじゃないかといわれる前に、ちょっとだけ弁解しておきたい。
意識的に、それを仕掛ける流行請負人たちは、別にして、
なにかわけがわからず、ヒットしてしまったものも、
時間を置いて眺めると、時代がささえていたことに気付かされるのだ。

 その尺度が10年であるのか、100年、あるいは1000年であるのか、
によって、見えてくる風景は当然ちがう。
何倍の拡大力をもつ望遠鏡かで、見たいものもかわってくるのと同じように。

 10年で見たとしよう。
それは、流行遅れとか、先進的、前衛的いうたぐいの言葉で評価されることになるのだろう。
 わが(でもいか)音楽業界の流行の基準はだいたいこのあたりだ。
ゼロをひとつふやしたところで、人の一生の長さ以上になるだけのはなしで、
イッセンノトクにもならないしね。

 もし100年だとしたら、現在と比較対象するべきものは、
たとえば日本では明治末期になるのだから、
個人的な好き嫌いをベースに何か理論付けをしたとしても、あまり意味はない。
かろうじて歴史の解説本、または音楽の教科書の中に生き延びた歌を、
音楽的な感動とは、かなり遠いところで眺めることになるのだろうか。
景色としては個人的には嫌いではないけれど。

 それが1000年であるとしたら、もはや、音楽としてとやかく言う前に、
人としての意識のあり方が、まるでちがうことを、
とにもかくにも前提としなければならない。
 我が国では、まだ普通に魑魅魍魎と“共同生活”を営んでいた時代であるのだから。
 ということは、
流行歌、などと限定しないで、言語、僕からすれば日本語と、
大きく枠をひろげても、同じような結論になるような気がしてきた。

 つまり、文字で表現される分野のものも、視覚的な表現も、
独自性があるとか、時代を超えているとか評価されているもののうちにも、
実は時代が成り立たせている作品もかなりあるといっていいのかもしれない。
それが、一瞬アバンギャルドに見えたにしても。

 もっと言えば、現代が評価する歴史的な作品とされているものは、
現代人が現代の感覚、思想で選択したものだ。
見落としているものがたくさんあるのだ。
まあ、音は楽譜でしか残っていないものが大半だけれど。

 これは、未確認飛行物体や、霊を普通に見ることのできる人と、
僕のようにまるで見えない者との違いと言えそうだ。
きっとどこかに宝の山、埋蔵金、金塊をのせた沈没船があるのか。

おいおい、全部カネがらみのたとえだぞ、キミ・・・。
 ちなみに、僕はCMソング歌手?としてでびゅーもしている。
普段歌っていたものがCMソングになったというのではなく、
ネラッテ書かれた歌をである。

車はいつも走る、地平線を目指して
車はいつも、いつも、いーつーもー。


 という、タイヤメーカーのわけのわからないものだ。
作詞はなんと別役実。
不思議なもので、わけがわからなくても、
別役さんならなあ、と、今ならみんな納得するのだろう。
しかし、この方もCM畑で成功したという話は聞き及んでいないっ。

 そして作曲は現代音楽の廣瀬量平さんだったと記憶している。
廣瀬さんは北海道の方で、
僕の同級生の父親と親交があったと、廣瀬さんからうかがった。

 と、なんとかまるくおさめようとしてイマス・・・。

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