冬 の 池 |
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春に『耳の惑い』と題して、萩原健次郎氏と、 京都ほんやら洞で詩のリーディングとギターの弾き語りによるコラボレーションをした。 聞きにきていただいたた方々にどんな印象のもライブだったのかは、 感想の手紙やメールを受け取っていくうちに、 僕の中で少しずつ像を結んできつつある。 結論を先にいうと、そんなに悪くない。 もっとも、わざわざの感想が、批判的なものだとしたら、 それは身内か、さもなければ、やっぱりどうしようもないできだったかのどちらかだろう。 『耳の惑い』の感想の多くは、そのうちのどちらでもない。 その後も、ふたつみっつ、萩原詩による新作ができた。 ここで、紹介するのは、そのうちのひとつである。 そして、昨日テレビの収録で歌ってきたものである。 歌っての印象は、結局僕の歌になっていくのだな、である。 まだ、できたてのほやほやなので、まだ作りこんでいく必要はあるのかも知れない。 それでも、おおよその着地点は見えてきたような気がするる 今回の『歌のはなし』は現在進行形で、 歌づくりの現場を見ていただこうという趣向である。 |
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さて、萩原作品についてだが、僕自身も『日々のこと42』でふれた。 ぜひ萩原氏のホームページを覗いてもください。 今後、僕のステージワークの中に彼の作品が入ってくるのは間違いない。 ともかく、僕には刺激的な作者である。 詩集を読むと承知してもらえるはずだけれど、あたり前のことが書いてある。 ただし、改めて彼の作品以外で、そのあたりまえのものを探すと、 身の回りにはほとんどないことに気がつく。 いわゆるコロンブスの卵だ。 こんなものを一部地域にほおっておくと、そのあたりが自然発火してしまう。 非常に危険なんである。 そんなわけで、僕はことあれば、ほうぼうにばらまく作業をしようと企んでいる。 |
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次の欄で左には、詩集『冬白』におさめられている『冬の池』そのもの。 右には、その後僕が自分で歌うために変化させていったものを並べた。 ここには、声に出したものを理解してもらうことを前提とする場合の、 クルシマギレにかけた技が並んでいる。 なにも、それを更に、文字にしてお目にかけることもあるまいに、とは思いつつ。 ついでに弁解させてもらうと、萩原氏自身が詩のリーディングの場では、 たびたび、原詩の、ある部分がリフレインされたり、大阪語になったりしていた。 今回ほどの変貌はもちろんしていないのだが、 彼の詩は紙の上に定着することで最終形を得るものとは、 ちょっと違うということを、ともかく申し上げておきたい。 とはいえ、音階を与え、一定のリズムのもとに表現しようとした僕は、 絶句、あるいは驚愕の仕業を彼には、したのかもしれない。 今後、どんな方角に向うことになるのか、見当もつかないのだが、 個別、僕は遊園地のボートのオールを目いっぱい漕いでいるといった風情か。 水しぶきを浴びた方、その感想をぜひ聞かせてください。 |
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2行目 いてるの⇒いるの、 は大阪弁を関東風にいいかえただけなので、 まあ問題ないだろう。 7行目 水面の読みは僕はスイメンにしている。 9行目 象形文字を文字と置き換えている理由のひとつは、 単におさまりにくかったせいである。 その逆が13行目の折って⇒ふたつに折って、だ。 空間ができてしまったのだ。 10行目も譜わりの都合で、つなげてしまった。 11行目 食す⇒食べる、は微妙なところ。 音として聞いたとき、判りにくいかと考えたのだけれど、 “魚”をウオと読むか、サカナと読むかもそうだけれど、 ずいぶんニュアンスがちがってしまう。 昨夜のライブでは、うれいをたべるさかな、と歌った。 |
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え?そんなに変化していないじゃん、と思ったあなた。 白状すると一等無難なのを選んだのですっ。 あなたなら、 他の僕の萩原作品のカイザン行為についてこられるかも知れない・・・。 ついてきてクダサイ。 |
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