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3/4 KEY=D Capo=2 かな? |
‖Cadd9 C△7add9‖ ‖Cadd9 C△7add9‖×4 ひかり ひかり ざわめくひかり ‖DmaddA ≒‖×6 野原ただ一面 ざわめくひかり ‖Cadd9 C△7add9‖×4 ひかり ひかり ひしめくひかり ‖DmaddA ≒‖×6 雲が動くほかは 溺れて眠れ ‖Cadd9 C△7add9‖×4 ひかり ひかり たか鳴るひかり ‖DmaddA ≒‖×6 雨と混ざりあって無限を埋める ‖Cadd9 C△7add9‖×4 ひかり ひかり 集まれひかり ‖DmaddA ≒‖×6 祈る私の手に 集まれひかり |
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この歌は、日々ジョギングに明け暮れていた頃のひとつである。 一昔前、ランニングハイというものがもてはやされ、 体内麻薬がどうの、ドーパミンだかなんだかがこうのと話題になることがあった。 ようするに、ぼーっとしながら走っているということなのだが、 ぼっーと日々暮らしている僕にとっては、それほどの違いがあるわけでもない。 そんな僕でも、これはちょっとチガウかなという場面に出会うこともある。 どういうわけか走っていると視力が低下してくる。 ふだん自分は視覚的には、色や形で周りのものを認識していたのだと、 そんなおりに再確認することになる。 つまり、僕の場合のランニングハイは、 光っているものとあんまり光っていないもの、といった、 ごく大雑把な見え方になってくるのだ。 そして、光っているものは、それだけで感動的だったりする。 この程度の視力があればその後の人生には、 そんなに困らないんじゃないかと、思ったりするのである。 ランニングハイから戻った後でも、 普段過剰に色かたちが見える暮らしをしているのじゃないかなどと、 HE理屈のひとつもこねてみたくもなるのだ。 著者は忘れたけれど、たしか『沈黙とラジオ』という題名の本があった。 それは音声ついて言及している内容だったけれど、視覚に置き換えても読めるのだな。 きっと。 |
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ランニングハイがあるのなら、スィンギングハイがあってもいい、 というのが僕の言い分である。 熱くなって絶叫する、というのとは違う。 いや、違わない人もいるのは知っているので、僕の場合は、とただし書きが必要だ。 自分や合奏している誰かの発している音声にのっかって、 目の前の空間に自分が漂い始めている気がするのだ。 本当は、気がする、というよりもっとリアリティがあるのだけれど、 アブナイやつと思われるのもアブナイので、これぐらいの表現にとどめておこう・・・ ほんの一瞬の出来事である。 おおむねは演奏したり歌っていたりしている自分を、自分の体を通して観察している。 それはそうなのだが、その聞いているポジションが、 あいまいになって、あらぬところ、たとえば天井のあたりで自分が聞いているという、 なんだか得体の知れない感覚にとらわれるときがあるのだ。 これをスィンギングハイと、名づけさてもらっている。 声をひそめ気味に書いているけれど、そんなの当たり前ジャン、 と言われたら、ど、どうしよう。 逆にへこむなあ。 |
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では、スィンギングハイがあるのなら、 ドローイングハイがあって、つまりそんなときいい絵が生まれたりするのだろうな。 なんて、当たり前だな。 ということは、イーティングハイとかいって、夢中で食べる人もいるんだろうし、 音楽にもど;れば、ヒアリングハイがあって、陶然として聞きいるのも、 別にあらためて言うこともないな。 人の行為なんて、すべてある種のハイ状態なんだろう。 きっとそんなとき、調べてみれば、いろんな体内麻薬が出ているのだろうし、 だいたい、生きつづけるなんていう、大事業をこなしているのは、 そのおかげだと、断定したい。 だから、欝になるなんて、単に麻薬がきれたということなんだろうな。 いや、もしかしたら別の麻薬が検出されるのかな。 わからん。 征露丸だって飲みようによっては麻薬になるのだろうし、 子供のころ、頭痛持ちだった僕には、ノーシンは、十分麻薬だったな。 それなりに、どきどきしながら服用していたもの・・・ どうも、人なんてクスリづけのようだ。 ということで、情感が喜怒哀楽の、どれか一方に偏ったとき、 人はあぶない、という話でした。 どこが? |
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