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G Bm Am D7 僕は この星の肌に なって ずっと 君を見上げているよ C Em Bm D7 街の下で 赤んぼみたいに キルキル 笑っているよ G Bm そこは 仕合わせとおんなじ場所で Am D7 やわらかな時間が立ち込めている C Em Am / D7 G 真っ白になった夢がいつでも 手を さしのべてくれる だろう C G 上機嫌には見えないかもしれない C Bm Em ÷ でも気にしないで 僕はとても 眠い G/D7 G Bm/Am D7 G/D7 G Bm/D7 G さようなら さようなら さようなら さようなら G Bm Am D7 晴れた朝 虫になった僕が 街の公園で 目を覚ましたら C Em Bm D7 鳥になった君が それと知らずに 啄むかも しれないね G Bm Am D7 僕がこれから出かける場所に きっと 君は来ないだろう C Em Am / D7 G もっと素敵な場所を見つけて 飛んでいくの だろう C G それは分かりきったことだけれど C Bm Em ÷ でもひとつ言うね また君に出会いたい G/D7 G Bm/Am D7 G/D7 G Bm/D7 G さようなら さようなら さようなら さようなら G/D7 G Bm/Am D7 G/D7 G Bm/D7 G さようなら さようなら さようなら さようなら |
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4/4拍子 Key=G |
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これを書いている時点でもっとも新しい歌二つのうちの一つだ。 2004年3月2日のイギリス館ライブでぜひとも新しい歌を披露したかった。 一月ほど前のことだが、眠りに就くちょっとの間、 口の中、あるいは頭の中で言葉をぶつぶつ言っていた時期がある。 そのうちのどれだかが、少しずつ形を現しだして、やがてこの歌になった。 この手口がいつでも使えるというのでもなく、今回はたまたまそうなったということ、らしい。 と、自信がないのは、あれからはいっこうに出現してくれないからだ。 それどころか、体調まで落ちてしまった。 どんな因果関係があるのだと、いぶかしく思う方もいるだろうが、 僕としては、これに関しては、けっこう“自信をもって”言い切ることができる。 これから眠ろうというときに、あんな作業はするものではないのだ。 |
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歌を書くとき、その旋律の形が僕の場合は、二つに大別できる。 僕の作ったもので例を挙げると、一つ目の形は『面影橋から』『五月雨川』のように、 メロディラインが比較的はっきりとでているものだ。 どちらかというと、僕としてはこの方がフツウだと思う。 ところが、フォークの分野では、これが主流とも限らない。 たとえば、循環コードなどとよばれる、一定のコード進行を優先して、 それに言葉を当てはめていく場合がある。 いや、多数派をいうならば、こちらのほうが多いのかもしれない。 ただし、聞かせどころは、メロディを際立たせるような、 “複合ワザ”を使っているケースも多い。 というか、ある時期からは、このほうが多くなったかも知れない。 |
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字あまりソング、という言葉があり、フォークソングを揶揄するためにまず使われた。 それまでの、一音でひとつの音符を使うのが常識とされてきた感覚の持ち主たちには、 我慢ならないところだったのだろう。 一つの音符として表記されたものに、ひとつの単語をつめこむことは、 別に僕らにとっては、どうということもないことだったけれど・・・ 結果、先に書いたように、旋律の形は捉えにくくなったことは否めない。 しかし、だから音楽にとってなんだというのだ? と、僕らフォークのソングライターたちは、とくに気にしてもいなかった。 |
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ところが、やがてフォークが歌謡曲、流行歌として認知されだした頃になると、 事態は複雑になってくるのだ。 どちらがタマゴでアヒルかは、今となってはたいした問題ではない。 この一音が一音符という歌感覚は、流行歌、クラシック音楽を問わず、 日本の歌曲の当然の姿として認知されていた。 そこに生まれでた“みにくいアヒルの子”としてのフォークも、 なんとかアヒルとしては不満はあるにしても、生き延びたかったのだ。 音楽的な構造としていうと、この一音一音符感覚を、 字余りソング側が、受け入れたというわけである。 音楽の、精錬の過程としては、 当然の通過点であるという立場もあるのだろう。 一言一音符も捨てがたいとは思うけれど。 ともかく、フォークはじゃっかんの痕跡は残しつつも、時代の流れに飲み込まれていった。 これから先のフォークの解説は、夢眠氏に任せておくとして。 |
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僕は、どちらかというと、フォークとしては珍しく、体制派である。 子供のころから、童謡も歌曲も、フツウに田舎の子供でも聞くことのできるものは、 おしなべて好きであったし、実際に歌っていた。 外国曲はほとんど日本語にやくされたものではあるが。 だから、僕の書いた歌は、先にあげたように、割合メロディラインが明らかである。 考えようによっては、フォークとしては異端とも言える。 ただ、形としてはそうかも知れないが、 心としては、やはり僕はフォーク以外のなにものでもないと思っている。 ややこしい。 などと書きながらの弁解だけれど、アメリカンポップスも大好きだった。 姉の作っていた、ポップスをラジオで聞き取ってカタカナ化していたノートは、 僕もずいぶん楽しませてもらったものだ。 |
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どうやらやっと、表題の歌にたどりつきそう。 つまり、この歌は、僕としては珍しい、字あまりソングなのだ。 他に自分の作ったもので、このタイプを思い出してみると、 『夏・二人で』『おやすみなさい』あたりかな。 しかし、この『星の肌』、やっぱりキカセドコロは僕ほんらいの一音一音符になっている。 あれっ? それって、ハマッテシマッタってこと?? |
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とことろで、ひとつの詩にひとつの旋律で決定、でいいのかということを問題にしたい。 ジャズでは、たとえばシャンソンの『枯葉』をモチーフにした、 それぞれの即興を混ぜた演奏が、数限りなくある。 その、演奏という部分を作曲もふくめて考えて、ひとつの詩に複数の曲があってもいい。 困るのはジャスラックだけであるが、それはそれで対応していただかなくてはならない。 たとえ中原中也の『サーカス』を僕の参加しているグループで歌っている。 これは小室等による作曲である。 多分、これぐらい知られた詩だと、読者それぞれに深いイメージがあるだろう。 さらには個別ほとんど動かしがたい、といえるレベルだったりする。 『サーカス』を歌うということは、『星の肌』を歌うようなわけにはいかない。 しかし、こうやって試行していくと、あいつのはいいが、こいつのは嫌いだとか、 もっと細分化された評価がなされだすに違いない。 ジャズの『枯葉』のように。 また脱線してしまった・・・ |
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