曲名 公表作品 作詞者 作曲者
 028   『首飾り・夜が走ってゆく』   忘れたお話   及川恒平   及川恒平 

4/4 首飾り、夜が走ってゆく
私の心をすりぬれて

敷き詰められた冷気の上に
女神が一人 笑っている

いつの日か 今日とおなじ時を
過した記憶が 蘇る

柊の歌は いつもペチカの薫りがして
もういいかい≠ニ繰り返す
もういいかい…

  
首飾り、夜が走ってゆく
私の心をすりぬれて

季節は 突然歩き出し
短い木霊 が続いている

しあわせは人を忘れる前に
一度だけ 姿を見せるだろう

手まりの歌は いつも祖先の声が重なり
もういいよう≠ニ繰り返す
もういいよう…

2002年冬横浜郊外


 この歌について書こうと思う。
わざわざこう書き出したのだ。
そう言わなければならない事情はお察しの通り、クルシイからに他ならない。

 にもかかわらず、では何故思い直し、書きとめておこうとしたのかを明かにすると、
おのずと答えになりそうな気がしている。
おそらく今後、このての歌は発表することはないだろう。
書けないということもあるかもしれないが、
もし書けたにしてもきっと公にするとは考えられない。

 時代は1970年代のはじめである。
数万枚の売りあげを記録したLPレコードのA面第一曲目がこの歌である。
良き時代とかたずけてしまうには惜しい事実である。
 多くのレコードが発表されていたそのころ、
決して低くない支持を受けたのには、やはり理由があってのことと思いたい。

 ただし、発表当時、そしてつい最近まで、
この歌に関しての感想は作者であるぼくの耳には丸で届いてこなかった。

 批評しにくいタイプの曲であるのは、しかたがないにしても、
これはどういうことだったのだろう。
 この感覚の歌でアルバム「忘れたお話」全体を統一したわけではなく、
むしろこの一曲がきわだってツッパリだったからかもしれない。
だとすればとっつきやすそうな歌についてまず批評し、
この歌はちょっと横においておいて、となるのが普通なのだろろう。
つまりこのアルバムは実に多様な言語感覚の歌が混在していたということなのだ。
 何故そうなったのか。
 今となって、やっと思い当たることがある。
それは、『忘れたお話』のどの歌のどの言葉も、あの時代が書かせたということだ。
作者であるはずの僕の個性などにお構いなく、
時代はしたたかに一フォークシンガーを利用したということなのだろう。

 だから、トータリティが欠けていると感じるのは、
それは時代を考慮しない場合に限られる。
弁解をすれば、僕自身こうでも言わなければ、あまりの不統一感に卒倒しそうだ…
 
 おそらく、最近にになって僕の耳に届くこの歌の批評をしてくれている方々の多くは、
同時にこのアルバムの他の歌とも、共存しているに違いない。
 言葉をいろどる時代という首飾りは、
時に言葉に内在する感性など無視しさえするのだろう。
むしろ言語にとっての幸福は、単なる分析を拒むこのことにあるのだ。

 この歌詞が下手ではあるが、けっこうしたたかに生き延びてきたのは、
きっとそのためだ。
 いずれまた歌える日を迎えたい。時代の援護は望むべくもないが…




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