封建者よ大事

歌のはなし 曲名 公表作品 作詞者 作曲者
015 冒険者よ ペーパーランド
及川恒平 本田修二 

このコードは、
改めて僕が
自分用に付けたもの。
オリジナルでは
ありません。


G♯m7/F♯m7 E/E6   G♯m7/F♯m7   E/E6         
賑わう     果物屋    おしゃれな娘の   厚着
G♯m7/F♯m7 E/E6  G♯m7/F♯m7 E/E6            
う す      暗い      六時

G♯m7/F♯m7 E/E6     G♯m7/F♯m7 E/E6         
そして今     電車を待つ   ホームの  隅
G♯m7/F♯m7   E/E6       G♯m7/F♯m7  E/E6    
風に揺れる草    もう力のない   西陽
G♯m7/F♯m7 E/E6   G♯m7/F♯m7   E/E6        
 短い影の    先から  十月が   始まった


A       E    A      E
僕は回る季節に    なぞらえ て
A       E     A     Am    E/E6   ≒        
君を語りはしない  やせこけた冒険者  よ


G♯m7/F♯m7 E/E6  G♯m7/F♯m7   E/E6          
遠くまで  出掛けて     数え忘れた   月日
G♯m7/F♯m7 E/E6    G♯m7/F♯m7 E/E6          
帰   っ     て 来た          友

G♯m7/F♯m7  E/E6    G♯m7/F♯m7 E/E6         
そして夕べ     見た夢も    閉じ込め    て
G♯m7/F♯m7  E/E6     G♯m7/F♯m7 E/E6        
伏目がちな 君   もう折れて  しまった  の  か
G♯m7/F♯m7  E/E6  G♯m7/F♯m7  E/E6          
よく人を 楽し  ませた   お喋りな夢の木   は


A       E    A      E
僕は回る季節に    なぞらえ て
A       E     A     Am    E/E6   ≒        
君を語りはしない  やせこけた冒険者  よ

A       E    A      E
僕は回る季節に    なぞらえ て
A       E     A     Am    E/E6             
君を語りはしない  やせこけた冒険者  よ



  『引き潮』という歌の最初の録音盤『ジャンジャン・ライブ』で
僕は『銀河鉄道』というバンドの曲とハッピーエンドの曲を歌っている。
前後して『銀鉄』の本田君と『ペーパーランド』というバンドを組み、
細野晴臣さんとは和田アキ子さんの歌をつくっている。
 現在その『銀鉄』の話題が掲示板にのぼっている。
 
 まさかという気分が半分。やっとだなという気持も半分。
なぜなら『銀鉄』は当時でも群を抜いて巧いバンドであったから、
そして陽炎のようにはかない命運をになってもいたからだ。
 
 実は、ペーパーランドを作る前に、
ぼくは『銀鉄』をほぼそっくりバックバンドにして学園祭などをまわっていた。
当時メインボーカルの牧良夫くんは渡米中でいなかったのだが。
 しかし、翌春にはこのバンドは解散が決まっていた。
牧君がいないのも大きかったが、超テクのリードギター、
佐藤の大学受験が決まっていて、もうプロはやらないということだったのだ。
パーカッションのダイジローも牧君を追うように渡米するということで、
残ったのはリーダーのギタリスト、本田君だけだったというわけだ。
 もう少し時間をさかのぼっておく。
この『銀鉄』はいわゆるスーパーセッションバンドというやつ。
 ぼくが審査員をしたあるコンテストの上位入賞者たちがつるんだのだ。
そのとき、まだアマチュアだった大貫妙子さんが
北原白秋の詩を実にキレル音で表現していたことも、記憶に残っている。
『三輪車』というバンド名だったと思う。

 さて、『銀鉄』。都内に住む高校生だけのバンドだ。
圧倒的に年少でいて圧倒的に達者。
 そのコンテストではCSN&Yの『青い目のジュディ』の完コピをやってのけたものだ。
おそらくあのレベルで出来たのは、当時『ガロ』と『銀鉄』ぐらいだろうな。
しかもコドモがだ。
 当時ベルウッドのディレクターだった三浦光紀さんは、
即座にレコーディングを決めたような気がする。

 それが、今掲示板で話題になっている一枚だ。
そう『銀鉄』の盤は後にも先にもこれっきり。
進水式は終えたものの、
たいした活動もせずにいたこのバンドを僕はほおって置けなかった。
僕の家に呼んでは、ドンチャン騒ぎと翌日の学園祭などをこなしていたのだ。
彼等をプロの道にまねきいれた責任もあった。
しかし、その後彼等はぼくのそんな気持ちなど、まるでお構いなしのノー天気ぶりで、
一人ひとり勝手な道を歩いていったのだった。
かっこいいよね、ホントニ。
 ここから『ペーパーランド』に話をもどす。
この『PL』は僕と『銀鉄』の本田修二と、本田の友人でベースの幸田実がメインとなり、
ゲストメンバーに尺八の三橋貴風、タブラバヤの黒坂昇などを加えて、
ライブやレコーディングをこなしている。
 何故、ぼくが突然のようにバンドを組んだのかというのも、話の要点にはなりそう。
しかしまあ六文銭が出発点である僕だから、
バンドをやるのは不思議じゃなかったと、とりあえず今は言っておくことにする。

 『銀鉄』もはかなかったけど、思えば『PL』もジュウブンはかなかったのでした。
やっぱりただ一枚の『だるまじるし』の盤を残したのみでした。
何故だと思いますか。
 簡単です。売れなかったのです。
編曲に江夏健二氏を迎え、背水の陣でのぞんだ録音でした。
そして江夏とは、そうです、
十余年後再会することになった黄永燦・ウォンウィンツァンのことです。
実はナニヲカクソウ、当時黄永燦は日本の音楽界では
まだまだ名もあまり売れていない人でした。
僕はあるフォーク歌手のバッキングをしている
彼の電気ピアノの音にしびれて編曲を頼んだというわけです。
どんなふうにしびれたかというと、彼の演奏は伴奏゛てはなく一人目立っていたのです。
それが良くて…。

 こんな発想は、今思えばジュウブンやぶれかぶれだね。
そして、この江夏クンがまた問題でした。
ペーパーランドの演奏力をまるで評価してくれないし、尺八を使うことにも難色をしめすし、
レコードの冒頭でヤスカズ氏の打楽器の演奏があるのだけれど、
彼の了解をとりつけるのはやっとというホドだったのです。
アレンジの打ち合わせも、僕が「ゆうやけが見える感じでさ」と言うと
「ゆうやけという音はありませんよ」と彼の返事。
 けっこうイケテル話でしょ。
これはこれでいずれまた。
 
 こんな危うい録音作業の上にか下にか、世はニューミュージックの時代。
この程度のアコースティックサウンドは『ヒンジャク』と評されるのがおちでした。
つまり商業的には徒労以外のなにものでもない作業をしていた僕タチでした。

 そして、けっきょく自爆したのだと今ではみとめざるをえないでしょう。
自分の才能のなさが最大の原因なのはモチロンなんですが。
ながくなりそう。今日はここまで。 


Copyright©2001-2003 Kouhei Oikawa(kohe@music.email.ne.jp)