いちにちのすべて |
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Key=F KAPO=3 ギターは 6弦をDに。 |
D A7 ≒ D D ≒ ≒ ≒ 虫を 照らす 細き 光 D A7 ≒ D D ≒ ≒ ≒ いち にちの それが 全て D A7 ≒ D D ≒ ≒ ≒ 花を ユックリ ほどい ている D A7 ≒ D D ≒ ≒ ≒ いち にちの それが 全て A7 ≒ D ≒ A7 ≒ D ≒ 黙せよ 称えよ 黙せよ 称えよ D ≒ ≒ ≒ D A7 ≒ D D ≒ ≒ ≒ 水の 色が ふと 移ろう D A7 ≒ D D ≒ ≒ ≒ いち にちの それが 全て D A7 ≒ D D ≒ ≒ ≒ 魚に なって 耳を 澄ます D A7 ≒ D D ≒ ≒ ≒ いち にちの それが 全て A7 ≒ D ≒ A7 ≒ D ≒ 黙せよ 称えよ 黙せよ 称えよ D ≒ ≒ ≒ D A7 ≒ D D ≒ ≒ ≒ 暮れて もなお 風の ふもと D A7 ≒ D D ≒ ≒ ≒ いち にちの それが 全て D A7 ≒ D D ≒ ≒ ≒ 野に 埋もれて 指を 汚す D A7 ≒ D D ≒ ≒ ≒ いち にちの それが 全て A7 ≒ D ≒ A7 ≒ D ≒ 黙せよ 称えよ 黙せよ 称えよ A7 ≒ D ≒ A7 ≒ D 黙せよ 称えよ 黙せよ 称えよ |
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四、五年前に7つの詞のかたまりとなりあいぜんごして出てきたもののひとつ。 ほかは 『この世、花の日』 『ふたつの水たまり』 『いのちかえす日』 『あつまれ光』 『うみへ』 『平原にて』 そのときは、ほぼ曲もすべて同時期にできたのだが、 のちにウォン・ウィンツァン氏が曲を書き、そちらを現在歌っているものもある。 |
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なかでも、この『いちにちのすべて』は、現在ぼくのまんなかあたりに生息している。 なんどトライしても演奏形態はさまざまになる。 打楽器だけで歌ったりもした。 その自由度の高さが、気に入っている理由だといえる。 しかし、裏を返せば、決定打がないということか。 フォークギターを、もう一度クラシックギターから持ちかえた直接の動機は、 この曲あたりにありそうだ。 ある種のはげしさを、スティール弦であらわすことが、現在は楽しいのだ。 とにかく、クラシックギターでこの曲を演奏する気には、今なれない。 |
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歌というのはつらなっている火山のようなもので、活発な活動、つまりはよく歌うもの。 しばらく歌う気持ちになっていない、つまりは休火山というわけだ。 そして、専門家の火山活動の予知でさえ、それほどあてにならないように、 いつその歌が活動期に入るのかは、自分でもわかっていない。 気まぐれで歌ったものが、思ったより拍手が多かったとか、 ひとからみて、なんともシンプルな理由で活動期に入った歌だって、結構あるのだ。 いや、ぼくだけではないだろう、と思いたい。 2002/6/19追記 |
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ドからソまで成り立っているきわめてシンプルな曲だ。 『はとぽっぽ』だってドからラまである。歌っていてなにやらもどかしく、 それでいて奇妙な満足感もある。 そうカンタンには酔わせてやらないよ、 という強い意思のようなものがこの歌にはあると言えそう。 これを書いてのちに、『大きな耳』という本に出会った。 ドとレだけで楽器をひくという部分があった。作曲もまたしかり。 大切なのは、それらしい旋律を作るのではなく、一音一音を大事にということか。 あんた、練習曲を人に聞かせるつもりかと言う声も聞こえてきそうだけれど… |
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