papaの独り言 003
極私的芸術論
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及川恒平をはじめとするフォーク・シンガー達を「芸術家」と呼んでいいのだろうか、
と迷うことがあります。
コンサート情報などを目にすると「参加アーチスト」と表記されている場合があるからです。
アート(Art)という言葉には技術とか技芸という意味もあるようですが、
一般にアーチストといえば芸術家のことでしょう。
芸術と言い、芸能と言い、あるいは単に芸と言います。
何もクラシックだけが高尚で、ポピュラーは低俗などと言うつもりはありません。
ただ、めざしているものが違うと思うのです。
その意味で、私はフォーク・ソングの担い手たちには芸術家であって欲しくない、
と願っているのかもしれません。
「あなたの中の美しい色を表現してみてください」。
そう、お願いしたとします。
画材屋の棚をにらんで、お気に入りの絵具があればいいのですが、
そうでなければ自分で調合することになります。
それが南の海のエメラルド・グリーンであったり、
宝石のような透明感を伴う色であれば、
他の材料をあたらなければならないかもしれません。
苦労の末にイメージどおりの色を、例えば数年後であっても、表現できたとしたら……。
仮に第三者から批判されたとしても、動じないはずです。

良識ある社会人からすれば、
金と時間を費やして「心の中にある色」を創り続ける作業とは徒労であり、
望んで徒労に身をおく人間を「変人」と呼びます。
美術を例に挙げましたが、私の考える「芸術家」とは、そうした類の人間です。
自らの美的なるものを追い求め、不特定多数の鑑賞者を必ずしも必要としない人種です。
作品を作ること自体が目的であり、ある意味、自己完結型とも言えるでしょう。
ここでは「自らの美的なるもの」と表現しましたが、
「創造的混沌」とでもしたほうがより正確です。
どう表現していいのかわからないけれど、自分の中にある何かモヤモヤしたもの……。
それは長年棲みついていたものかもしれないし、
ある日、ふと見かけた風景なのかもしれない。
それを言葉にすれば「文学」であり、絵や彫刻にすれば「美術」と呼ばれます。
ところが、あまりに独創的な作品は他人には理解されません。
モーツァルトの初期の作品は「あれでも音楽か」と酷評されたそうですし、
分野こそ違いますが、
世界中で相対性理論を本当に理解できる者は指折り数えるほどしかいないといいます。
後期のピカソは奇妙奇天烈の代名詞となっています。
独創性と大衆性はおおむね反比例するのです。

そして、フォーク・ソングを含むポピュラー音楽は、
その名の示すとおり、大衆性を無視しては成立しえないのです。
「誰か」に聴いてもらい、感想なり感動、
いわば「二次的混沌」が生じるまでは完結しないのです。
芸術音楽では「独創性」に重きを置き、作品がそれ自体、目的であるとすれば、
ポピュラー音楽は「二次的混沌」を生み出すための「手段」ではないか、と思うのです。
若き日の私が、クラシックと歌謡曲を嫌い、
フォーク・ソングに魅かれていったのはこんなところに理由があったように思うのです。
つまり、「独りよがりのクラシック」と「大衆迎合の歌謡曲」であり、
「独創性と大衆性の微妙なバランスのフォーク・ソング」、なのではなかったか、と。

……などと書きながら、自分の中に沸々と反発心が頭をもたげてきています。
少なくとも現代において、
ほとんどすべての音楽、さらに広義の意味での芸術は「商品」なのではないか、と。
これはまたいつか、別のアプローチをしてみたいと思っています。

そして、初めに戻ります。「及川恒平」の肩書きをどう呼ぶべきか。
今のところ「表現者・及川恒平」というのが、気に入っているのですが、さて。

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