夢眠のフォーク畑 026
天 賦 の 才
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やっぱり世間には天才ってのがいるんである。
いや、天才ってのとはちょっと違うな。
資質というのか、生まれつき持っている能力とでも言おうか。
現役時代の長嶋茂雄ほどユニフォームの似合う野球選手を、ボクは他に知らない。
まあ、監督としての手腕はさて置くとしても。
あるいは古今亭志ん朝である。
楽屋裏の三味線が「老松」を弾き始める。
両手を軽く合わせて、やや猫背気味に登場する。
ゆっくりと座布団に座り、深く頭を下げ、顔を起こす。
たぶん、江戸時代の商家の若旦那ってのはこんな雰囲気だったんじゃないか、
と思わせる雰囲気が辺りに漂う。

音楽で言えば・・・。
 巧い連中ってのは、何故ああも軽々とギターを持てるのだろう。
そもギターなんて、ましてアコースティックなら、そう重い楽器ではないのだが、
アマチュアのコンサートなんかだと相当窮屈に、
重そうに持て余している連中がいるのだよ。
ストラップを使っていようと座っていようと、肩にガチガチと力が入っていて、
本来、弦を押さえる役目の左手でグワシッとばかりにネックを掴むもんだから、
ろくに指が動かないんでやんの・・・って、自分のことか。
とにかく、スターってのは立ち姿だけでも決まって見えるんである。
そりゃまあ、本人の努力もあるだろうが、これはもう、血だ。
持って生まれた資質なのだ。

音感にしたってそうだ。
CDを1回聴いただけでキーを言い当てちゃうヤツがいる。
やたら音符の数が多い楽譜を初見で、
「こんな感じかな」
なんぞとつぶやきながら弾いちゃうヤツとか。
メーターを使って必死に調弦したのに、
「チューニング狂ってない?」
なぞと軽くホザかれ、調べてみたらメーター自体のピッチ調整が狂っていたり、とか。
ヤツらの耳ってのはどうなってるんだ?

そんな体験をしてくると、つくづくホッとする。
いやあ、音楽を職業にしなくて良かった、と。
所詮、小学校時代の音楽が「2」だったヤツに望むべくもないのだが、
しかし、いたいけない少年・夢眠に「音痴!」と評した教師を、ボクは許さん!
 そのトラウマから抜け出すのに何年かかったことか・・・。
少なくとも「1」のヤツよりマシだろが。
話がそれた。
とにかく、やっぱり、そういうものはそれなりの人々によって創り出されるのだ、
としみじみ思う。
と、同時に、フォーク・ソング、さらに幅広くポピュラー音楽にとって、
そういうオーラみたいな才能は必要不可欠なものなのか?
とも思うのだ。

ボクの分野で言えば、
豊富な語彙を持つことは文章を書く上でひとつの武器ではある。
より的確に表現するには、平易な言葉や言い回しだけでは無理な場合だってある。
だけどね、言葉の数やら種類なんて本質的なもんじゃなく、
難しすぎて誰も理解できない語句を駆使した独りよがりの文章を書くことに、
どんだけの意味があるのか、と思うのだよ。
要は何を表現したいのか、だ。それが他人に伝わるか、だ。
まあね、始末書やら借金の申し込みじゃないんだから、
伝わりゃいいってもんでもないけどさ。

歌を歌うことや楽器を弾くにはそれなりの才能や技術は必要だろうさ。
だけど、音楽は「技術博覧会」ではないのだよ。
ある時期、専門家や熟練技術者たちに占有されていた「音楽」を、
当たり前の人々の手に取り戻したのがフォーク・ソングだった、と思う。
逆に言えば、オーラなぞ微塵も感じさせない、
それこそ音楽の成績が1とか2の連中も含めた人々によって
フォーク・ソングは支えられたのだった。
少なくとも長嶋や志ん朝は、オーラを感じさせつつ、観客の存在を意識していた。
自分がどう見えるか、どう見せるかということを知っていた。
だから、スターたりえたのだし、自然体でそれができるのは、
だから、やっぱり天才なのだよ。
ボクはそのオーラの目撃者として、その感動を次世代に伝えて行きたいと思うのだ。

人間には神様なんか見えないし、神の領域に踏み込むこともできない。
だけど、神様には人間が見えているはずだし、
人間の世界に降りてくることだってできるのだ。
もしかしたら、
人間に与えられた神様の能力(の一部)を天賦の才というんじゃないか、と。
                                              夢眠

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