夢眠のフォーク畑 024
 他 山 の 石
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  編集長から「書き休暇」をいただいたのでズボラをきめこんでいたら
「秋(飽き? 空き?)休暇」にまでなってしまった。
この間、書かなかったわけじゃない。
何本か書くには書いたのだが・・・。
実はこの文章、とりあえず書いてみて、パソコンの中にしまいこむ。
頃合をみて最初の読者、すなわち、ボクが味見をする。
ワインよろしく発酵、熟成させるつもりが腐敗してしまったらしい。
どうにもピンとこない、というか、頭にズンと響く。悪酔いの前兆だ。
なぜだろうと考えてみた。

だから今回は愚痴めいた文章で恐縮なのだけれど、
ひとつ、お付き合いいただけないか、と思うのである。
いや、なに、そのことがかつてのフォーク・シーンにつながるような気もするんである。
すべてはボクのスケベ根性がいけないのだ。
ウケ狙いである。
同じ書くなら評判のいいものを、なんぞと、
大した筆力もないくせに生意気にも考えたのだ。
固定読者(?)数人を除けばどこぞの誰やも知れぬ読者にウケようなぞと
大それたスケベ心で書くものだから、
結果、格好つけすぎのよそ行きの文章しか書けなくなってしまった。
もともと、このコーナーの発端は、
話したり書いたりするなかで、ちょいと知ったかぶりをしてみたり、考え方や表現が、
まあ、よく言えばユニークだったところに編集長が目をつけたのだろう。
だから、素人の厚かましさでユニークを貫けばいいものを、
小器用にオチをつけたりしてウケ狙いに奔った。
まして友人からのお世辞混じりの講評を真に受け、
「んじゃ、ひとつその線で」
なんぞと策を弄し、デッチあげてきたのである。
それなら別にボクじゃなくてもいいじゃないか。
「ようやく気づいたか、このアホが」と言われそうな気もするが、
ボクとしては「アホじゃないから気づいたんだい」と居直りたい心境にある。
そこでフォーク・ソングである。
とりわけ70年代中ごろの衰退していく日本のフォーク・シーンである。
思ったのである。
我が愛するフォーク・ソングが振り返ってみればアッという間に、
歌謡曲と区別がつかなくなり、
今では『懐かしのメロディー』的扱いを受けるに至った理由である。

当時のフォーク・シンガー(作り手、歌い手)がいかんのだ。
たぶん、自己流に好き勝手に作り、歌っていたのだ。
それがたまたま時流というか時代にあってウケた。
レコードなんかも売れ、コンサートなんかの依頼もあり、
女の娘にキャーキャー言われ、
それまで見たことも触ったこともないような大金を手にしたのだ。
飲む酒だって、ホワイトからジョニ黒くらいまで上がったに違いない。
かなりひがみも入ってはいるが、きっとそうなのだ。

あの頃、やけに落ち着いた雰囲気で、
長老的存在に見えていた小室クンだって20歳台だった。
今にして思えば若造である。自分を見失って当然だ。
で、音楽資本に取り込まれ、ウレ線狙いの歌なぞ作り、堕落していったのだ
(いや、代表として名を挙げただけであって、別に小室クンがそうだというわけじゃ・・・)。
そう思っていた。
だが、である。
そういう、いわばフォーク第一次世代の二番煎じ、三番煎じにまで
熱を上げて追い掛け回していたのは誰だったのか。
ボクだ。コンサートで歌うヒット曲にのみ拍手を贈り、
あるいは逆に「帰れコール」を浴びせていた自称・フォークファン達だ。
昨日までGS(グループ・サウンズ、ね)のジュリー! とか、ショーケン! だとか、
騒いでいた対象がタクローに移っただけなのだ。
たしかにタクローは格好よかったし、
六文銭はあんまりキャーキャー言われなかったかもしれないが、
結局は流行、あるいは風俗のレベルに終わってしまったのだ。
なにしろ、六文銭はあの紅白歌合戦にまで出ちゃうんである。

あの頃、ギターを抱えて学校に行く(何しに行ってるんだか・・・)と、
電車の中で「フォークやってんですか?」などと声をかけられたこともある。
それがアッという間に「いつまでやってんだか」に変化していった。

再び、だが、である。(以下、次回)
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