夢眠のフォーク畑 023
ア ン グ ラ
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 それを先に言い始めたのはどちらだったか、今となっては藪の中だ。
…なあんて思わせぶりな書き出しだけれど、どっちが先だろうが大した問題じゃない。
つまりは「アングラ演劇」と「アングラ・フォーク」だ。

アングラ・フォークなる称号を冠せられた第1号は
『帰ってきたヨッパライ』だったかもしれない。
で、第2弾は『ケメ子のうた』。
両者に共通するものは何もない。
あるとすれば、作者がアマチュアのコミック・ソングであること、
テープ早回しのピニョピニョ声が使われていることくらいだ。
おかげで「アングラ・フォークってのはテープ早回しの歌」
という壮絶なる誤解が世間一般(の一部?)にはびこった。
思えば和製フォークは、その当初から誤解やら偏見に満ち溢れていたのだった。
嗚呼!
 「地下」を意味するアンダー・グラウンドという言葉を縮めて「アングラ」。
あまり上品な言い回しではないけれど、60年代末から70年代に流行した言い方である。
ただし、この場合の地下ってのは、
単にデパートのB1=食品売り場なんて具合の軽い意味じゃなくて、
反政府運動の極秘出版活動とか、
アル・カポネあたりの密造酒製造なんかを指す「地下」なんである。
まあ、世間からは胡散臭い目で見られるかわりに、
一部からは熱狂的に支持されてるって意味じゃ共通するものはあるけどね。

『時には母のない子のように』と聞いて、カルメン・マキを思い出すか、
アチラのスタンダード・ナンバーを思い浮かべるかは知らない。
そのカルメン・マキは寺山修司率いる「天井桟敷」という劇団の女優だった。
小椋佳もそこの音楽を担当していたというし、三上寛も因縁浅からぬものがある。
下田逸郎は東京キッド・ブラザースだったか。
小坂忠やガロのメンバーはロック・ミュージカルに出演していたし、
他ならぬ編集長だって役者くずれ、いや、芝居あがり、もとい、演劇畑の出身である。
別役実はアングラじゃない、と言われるかもしれないが、
観たことのない奴にあらすじを説明できないって点じゃ似たようなもんさね。 
ボク自身、アングラ演劇に触れたことは数えるほどしかない。
唐十郎とか佐藤信くらいだ。
はっきりいえば分からなかった……というより、怖かった。あの雰囲気が。
もうね、出てる人はもちろんだけど、見てる人もフツーじゃない。
テントの中の異様な雰囲気に、当時十代の、
せいぜいが高校演劇か新劇しか観たことのない夢眠クンは恐れをなした。
ここはボクなんかが来るところじゃない! 
不良の溜まり場だ!
だから、アングラ演劇については細かく触れない。
ボロが出る。

今にして思うのだが、
あれはやっぱり既存の芝居とか音楽に対する異議申し立てではなかったか。
演技とはこうでなけりゃならんとか、歌ってもんはこうあるべきだとか、
大人たちが作り信じてきたものへの抵抗じゃなかったか。
そりゃまあ、劇伴に既存の曲を使えば
目ん玉飛び出すくらいの使用料を取られるという事情はあったにせよ、
「こーゆーのもアリっすよね」的な部分で、
若き演劇人と若き音楽人が結びついていったのではないか、と。
 で、アングラ演劇に恐れおののいた夢眠クンが、
なぜアングラ・フォークなら大丈夫だったのかといえば・・・。
客層の問題である。
客観的には五十歩百歩かもしれないが、フォークの客層のほうが、
いくらか理屈っぽい連中はいたけど、まだマトモだったように思う。
あの頃、アングラ芝居とロック・コンサートの観客ときたら、そりゃもう・・・
                                            夢眠

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