夢眠のフォーク畑 019
ライブということ
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   少し前に友人と示し合わせてライブなるものをやってみた。
正味2時間半ばかりの間に、
齢ン十歳にして人前で歌うのは初めてなんぞという大胆不敵な輩を含め、
延べ10組ほどが取っ替え引っ換え登場するという慌しさではあったが、
それでも来場者100人! 

 素人集団にしちゃ大したもんだ、と自画自賛している。
で、酔っ払い半分の反省会の中でこんな意見が出た。
「照明、音響のこともあるからさ、段取りとか動きを確認すんのに、
一度、時間どおりのリハーサルをしてみては…」。
どうやら、図々しくも次の機会を虎視眈々と狙っているらしい。
しかし、だ。
今を去る30年ほど前、ボクは映像の世界に首を突っ込んでいた。
と、言ってもアマチュアのドキュメンタリーという、およそ金にならないどころか、
公開の当てさえなく、現像代以前にフィルム代に事欠く状態だった。
今みたいに手軽にビデオを使えるわけではなく、
16ミリのカメラを担いで走り回っていた。
貧乏所帯にとってもっとも悔しいのはNGである。
あるいは無駄な捨てカットである。
使わない、あるいは使えないことが判ってるのに、現像代を取られるのだから。
そこでボクはドキュメンタリーにも演出があるのだと知る。

そのとき、ある特殊な状況にある若いカップルを追いかけていた。
撮入初日、カメラ・テストを兼ねて、ふたりの散歩のシーンを撮ろうということになった。
場所はロケハン済み。
「腕を組んで、こっからあの辺まで歩いてもらって…」
簡単な打ち合わせと何回かのリハーサルの後、
「ハイ、本番。スタート!」
臨場感を出したいために周囲の雑音も含めた同時録音だから、
スタッフの声は厳禁である。
にもかかわらず。カメラと音声担当がほとんど同時に吹き出した。
「バカ野郎! フツーに歩けよ!」
現像の後で見たそのシーンは、確かにフツーじゃなかった。
どことなくカメラを意識し、腕を組んでの散歩どころの雰囲気じゃない。
極端に言えば、女の手を掴んで引きずっているような……。
主人公も笑いながらこう言った。
「だってよ、フツーって言われたって判んねえよ」
そこでボクは、フツーじゃない状況でフツーに見せるためには
演技が必要であることを知る。

ボクの「形に残らない財産」の中に、越路吹雪のロング・リサイタルがある。
あるいは三遊亭円生の高座がある。
まだ無名に近かったころの「熱海殺人事件」がある。
あれはきっと、実力と経験の上に、
綿密に計算され尽くした演出とリハーサルがあるのだろう。
ちょっとしたミスくらいなら何の支障もないくらいに思わせる、
いや、失敗でさえ魅力に転化してしまうほどのプロの力技だ。
素人の居直りだと言われるなら甘受しよう。
100人の観客の前で歌うというフツーじゃない状況で、
フツーに歌うなんてボクには無理だ。
たとえ何回リハーサルを繰り返そうとも意味はない。
まさか、リハーサルの段階から客に付き合ってもらうわけにはいかないだろう。
仮にそれをやったら、間違いなく、それが本番だ。

それよりなにより、演技力も歌唱力もない素人にとって、
リハーサルを繰り返すことは単なるパターンに陥らせるんじゃないか、
という不安が大きい。
ン十年かの人生を生き抜いてきて、それなりの古狸になった今になって、
ドキドキバクバクを飛び越して、口から心臓が飛び出しそうな緊張なんて、
そうは味わえるもんじゃない。
ならば、その緊張感を味わいたいと思うのだ。

そんな感じ、いわばアマチュアの特権意識は、
半世紀以上も生きてきて、
ン十年も歌い続けてきたプロには判らないでしょうねえ。
でもね、それって、
ちょっとだけ、フォーク・ソングの本質じゃないかって気もしてるんです。

                                            夢眠

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