夢眠のフォーク畑 015
中島みゆき、ふたたび
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 親切な友人が、非ネット生活者であるボクに教えてくれた。
「夢眠に反論がきてるよ、女性から」
 反論、結構。
悪評も人気のうち。
数少ない読者の中の、ましてや貴重な女性読者であるならば、と、
Tさんの投稿読ませていただきました。
ン? これって反論? 補足してくれてるんじゃないの?
 だから編集長、再反論はできません。戦闘意欲、まるでなし。
 ただね・・・

 この雑文に対する夢眠の基本的スタンスは「冗談に紛らせた本音」です。
文章未熟ながら、その奥にキラッと光る……とか、
喉の奥に刺さった魚の小骨のような……本音をめざしております。
 真面目路線はpapaに任せていますし、
歴史、沿革なら年表にでもまとめたほうが早いわけで、
与太話の中にひとつくらいの「オッ!」とか、「へェ〜」を潜ませられればいいな、と。
 たとえば・・・
現実に、男に逃げられた女が道端で泣き喚いている場に居合わせたら、
面白そうだから遠巻きに見物はするでしょうが、あまり、お近づきになりたくありません。
女の涙が似合う場所といったら、そうね、湯船の中なんてどうでしょう。
最終電車や深夜のバーの端っこの席なんてのも絵になりそうです。
編集長好みの雪の中に顔を突っ伏すのは、なんか霜焼けになりそうで……。
どんな図を思い浮かべるのかは、その人の人生経験の反映ですから、
どれが正解でどれが誤りというようなもんではないはずです。
だからこそ、イメージを限定してしまう「道」よりは「途」がふさわしいのではないか、
と男性的感性で思い浮かべたのが、アレを書くきっかけでした。
 ♪今日は倒れた旅人たちも生まれ変わって歩きだすよ (時代)

『わかれうた』もそうですが、こんな文句を一度や二度のゴタゴタで書いたとしたら、
それは思い上がりです。今日は傷つき倒れたけれど、やがてまた歩き出す。
でも、また……。それを書くほうも読むほうも分かっているから「詞」になりうるのです。
そうじゃなきゃ、説教じみた人生の応援歌でしかありません。
最近の若手のロックに多いんだよなぁ、そういうの。
ボク、道徳の授業を受けるために歌を聴いてるんじゃないもん。
  ♪あのひとが突然戻ったら、なんて、いつまで考えているのさ (あの空を飛べたら)

 ♪別れる人と分かっていれば初めから寄り付きもしないのに (ほうせんか)

 これだって一度や二度の失恋では書いちゃいけない詞です。
許されるとしたら初恋に破れたときです。
あのとき思いませんでした? 
もう人を好きになんかならないぞ!って。
 でもね、それは二日酔いの朝の禁酒の誓いみたいなもんで、時が癒してくれるもんです。
それを若気の至りというか、勢いに任せて書いちゃうもんだから、
5年10年経って、自分が人生経験を重ねるうちに恥ずかしくて歌えなくなるんです。
 まあ、多少なりともモノを書く人間は頭デッカチですから、
観念や想像に頼ったり、他人の経験を我がことのように語ることもありえます。
いわば、他人になりすますのです。
でも、『わかれうた』はいくつもの別れを見つめている、っていうのは正しいと思います。
いわば「彼女の実体験の普遍化」です。
これが「類型化」にまで至ると、月並みで一般的過ぎて面白くなくなるのです。
 微妙な線で踏みとどまっているから、彼女の歌、ファンが多いんでしょうね。きっと。
 それに、みゆきさんの詞でも、Tさんの投稿でも、思うのです。
やはり、悲劇のヒロインになりたがってるぅ。
そういう女性を敵に回すとこりゃ手ごわいぞ、肝に銘じた次第です。
 そして、それ以前に、読者が正確に読み取ってくれない文章を書くなんて。
反省すること大なり。
                                                夢眠

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