夢眠のフォーク畑 001

ごあいさつ代わりに


フォーク畑・表紙へ ホームへ


縁あってフォーク・ソングについて書くことになった。

と、言えば偉そうだけど実態は恒平さんチの間借り人、いや、居候といったほうがいいだろう。
だから、大家さんの歌にはできるだけ触れないでおく。
大家さんをへたに刺激して溜まった家賃を請求されてはたまったもんじゃない。
まあ、請求されたところで払えないし、盆暮れのつけ届けさえするつもりもない。
居候のせめてもの矜持である。

そもそも作った本人を前に解釈なぞ言えるもんか。
あの温厚な調子で「ふーん、そんなふうに読めるんだあ、
知らなかった」などと返されたら、ボクの底の浅さがバレてしまうではないか。



たとえば『引き潮』について語ったとしよう。
このテーマは「死」だなんて断言したら「ふーん……」が返ってきそうだ。
そこでボクはこんな具合にごまかす

「この歌を初めて聴いたとき、『永劫』って言葉が浮かんだんですよね」
これはウソじゃない。
しかも、これはボクが思ったんだから、他人にとやかくいわれる筋合いじゃない。
まあ性格と脳のヒネクレ加減を指摘されるのはしかたないが……。
永劫。とてつもなく長い時間のことだ。
でも個人の肉体に永劫なぞありはしない。



なんでも人間の心臓は300万回の鼓動にしか耐えられないという説があるそうで、
そうなると脈拍測定だって死へのカウント・ダウンということになる。
したがって、いつの日にか「わたしは」海になって土になって光になって、
そしてついには、消えちゃうんである。
消えて、永い夢を見ている状態を永劫と呼びたい。
ただ、これを「魂は永遠」なんて言い方をするのは陳腐に過ぎる。

しかし、だ。フォーク・ソングでそんな重いこと歌うか、ふつう。
何も政治的メッセージがなけりゃいかんとは思わないし、
逆に愛だの恋だのだけを描いていりゃいいとも言わない。
青春のある一時期に「死への憧憬」を想う輩も少なからず存在するし、
他者の死を悼む鎮魂歌なら珍しくない。
でも、自らの死を怜悧に見つめようとするポピュラー音楽を、ボクは他に知らない。
そんなの売れるもんか。



あるいは『出発の歌』でもいい。
彼は「銀河の向こうに飛んでいけ」と言う。「飛んでいこう」ではなく、「飛んでいけ」だ。
ワーッとばかりにみんなを盛り上げといて「ワタシゃここで見てますから」なんである。
あの暴動吹き荒れた政治の時代に冷静というか、達観というか……。
しかもボクはふと感じるのである。この歌にも『永劫』を。

及川恒平は詞(ことば)の人だ。
いや、メロディがダメだと言ってるんじゃない。
声も曲も柔らかくてまろやかで、心地よく響く。
だから、ついうっかり見過ごしてしまうのだが、
かなり重いテーマやらシビアな内容を、しかも澄ました顔で歌っている。
そんな人物を大家に持つ居候としては、
彼の書き、歌う言葉について論評できるわけがないじゃないか。

                                                   夢眠


フォーク畑・表紙へ ホームへ


Copyright©2001-2003 Kouhei Oikawa(kohe@music.email.ne.jp)