日々のこと61 | ||||
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近頃、言い逃れていること。 音楽は多様であるというじょうしきを使って。 そして、自他の演奏に関わらず感動と結びつくものは、 それほどはないという混沌をよそおって。 ときには、 音楽にとって感動とはライブに峻別していく運動神経そのものだよと、 煙に巻きながら。 |
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合奏とは。 リズムとコードとメロディと、歌モノであれば、歌詞と、 それらが、一応のきまりのもとに進行していく。 まざらないままに、突き進んでいくケースのなんと多いことか。 その単調が、安定を生み出すかもしれないお笑いぐさ。 しかしまた、時には互いに抹殺しようとする戦いや、 脚がもつれてみずから転倒する場面さえ、 感動的と評されることの多いのもたしかだ。 音楽屋は、その日々を生き延びている。 ともかく拍手をもらうまで、立ち去ることはない。 舞台の上には、たいてい自己模倣の今日をさとられまいとするつくりわらい。 その欺瞞が、意欲とやらに姿を変えて、 また演奏する力を生むことも知っている。 そのようにしか次はないではないかと、新しい愛人にこぼしたりしながら。 空虚なセレモニーは乱立する。 存続の理由、音楽は多様であるというひとりごと。 |
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感動の反対語として、無感動はうそだ。 無感動は、単に感動の一部にすぎない。 感動に対峙するのは、むなしさである。 あるいは、徒労である。 そうして、一瞬の感動は、疲労感あるいは虚無感に、 たいてい飲み込まれていく。 このような場面に遭遇してもなお、 演奏する、歌唱する意欲はたちあらわれる。 ひとり物陰で悲鳴をあげてみる者がいる。 ほんとうに意欲といっていいのか。 |
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落胆に、従順な音楽屋はいない。 なぜなら、その人は音をもう出さないだろう。 しかし、音楽と正面から向かい合うのが音楽屋ならば、 行方不明者の中にのみ音楽屋は存在するのだ。 ライブ演奏は、時間と音楽自身を切り刻むように見えることがある。 あるいは、こなごなにするように。 見かけは攻撃的に、事実は極めて臆病に、 ショウを繰りひろげる街。 ぼくは、嘘をつきに、また出かける |
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