日々のこと 41
拍 手
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 コンサートで、うまく歌えた、歌えなかったと、歌い手はどうやって判断するのだろうか。
技術的な良し悪しもその材料として、あるのは当たり前だけれど、
フォーク歌手と、つまり僕のような歌をうたう者と、
クラシックの歌い手の判断材料が同じとも思えない。
 芸であるからには、そのみがかれたテクニックを披露しているはずだと、
つっこまれたとして、それはそうです、と同調しつつ、
それはそうだけど、とつぶやいていたりする。

 この価値観の相違は、各音楽論のベーシックなところにやがてたどりつくだろう。
だから、今回は避けてとおることにする。
エバルンジャナイ・・・
近い将来、避けてはとおれないことになるのは、明らかだけれど。

 だから、ここではぐっとテーマをしぼって、
うまく歌えた、歌えなかったと、歌い手はどうやって判断するのだろうか、
の一点ということにする。
  演奏者がいったいどういう方法で、
感動あるいは“無感動”の質と量を推しはかっているのかというと−−−

 演奏終了直後の拍手が、もっとも大きな手がかりなのは当然だけど、、
割れるような拍手、あるいはスタンディングオベーションをもって、
ベストと断定するのは、ちょっとためらう。
 それをうけたことのない者のせりふらしいと場外から聞こえてくるのを、
無視しつつ問う。
それでは、能の終了に至る、あの実にしずかな“てつづき”を、
なんと評価したらいいのだろうか。
 
 そのしずけさの実に多様なあり方。
客席の、おしころした満足気な溜め息、どうしてもなってまう拍手、
まだ続いていてほしいと、演者の後を追うまなざし。
 連れの者にしか判らない、その人のなごりの所作。
やがて、あきらめのついたものから、徐々に帰り支度をはじめる。
 それらが、渾然となって夢の終わりを告げているのだ。

 能は、この終了の形もすでに様式として成り立っているようにも感じられる。
時間的な、歴史的な尺度としては、比べられるものではないものの、
おそらく、現代のロックミュージックや、ポピュラーミュージックのコンサートにもそれはある。
僕自身は実際の会場には行ったわけではないので、テレビなどでの印象だが、
観客も総立ちになってラストを迎えるのは、“様式化”への道をたどっているようだ。
 いずれにせよ、郷に入らば・・・
でなんとかやっている人もじゃっかんはいるのかもしれない。
 が、しかし僕のような音楽を、聞きにくる方たちは、
一体なにを持ってそのあたり、対処しているのだろうか。

 断定的に言ってしまうが、おそらく、頼るものはない。
すくなくとも今のところは、ない、と思う。
 それぞれが、万感の思いをこめて、あるいはこめずに、
拍手したりやめたりしているのだ。
くどいが、狎れたかたちは、まだないように思う。

 そうして、そんな拍手を受ける僕は、ひとりひとりの思いを判断しようと、
こうべをたれながら耳を澄ましている。
 つまり、様式のない状態で表現される聞き手の動作は、
実は感動してもらえたのかどうかを判断するには、
もっともしやすいといえるのだ。
  

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