日々のこと26 |
続・紙相撲
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ご好評に応えての早速の続編である。アリガトー。
僕の所にふた昔も前のある日、
若いミュージシャンが風呂敷に包まれた菓子箱を持参した。
中から紙製の力士数十名と土俵があらわれた。
そうして実際に紙の力士たちによる取組みを見せてくれたのだった。
人間が取組むのと同じ情景が目前に展開した。
寄りきり、上手投げ、はたきこみ、果てはうっちゃりまで。
僕を見る彼の目は、実に正しかった。
即座にノッタ。
どんな具合に話が膨らんだのかはすっかり忘れたが、
その日のうちに我が家にはイチ『紙相撲協会』が設立されたのだった。
まもなくせっせと力士が生み出されていった。もちろん名刺も。
すべて画用紙製、それも子供の図画工作向けの安価なものに制限されていた。
肌色が身体用、そして色とりどりのマワシも画用紙。
実に細かく設定された数値内で、いかに強い力士を生み出していくか、
それから数年のぼくの日々のテーマとなったのである。
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紙のことだけに絞って言っても、購入したまま使用するのではなく、
しばらく陽射しのもとに晒し置いて、程よい乾燥と色褪せを狙ったり、接着剤の種類により、
足腰の柔軟性に影響が出ることを発見したり、酒を飲みながら、気軽に作った力士は、
やはりソレナリだったり、神棚に置いて拝んだ方が強くなったりしたのだ。
シボッテナイカ。
思い出していただきたいが、紙相撲に凝ったヒトでなくても、
そのおよその紙の力士の形状は想像できるだろう。
つまり横から見た大銀杏や顔を書き入れることになるわけだが、
一時期、僕は街を歩いていても、
行き交うヒトの顔がすべて横顔に見えたことがある。正しく言えば、
正面から見ても、そのヒトの横顔が分かってしまうのだった。
これは便利とか不便とかいうより、何か一種の優越感が芽生えたというのか、
この状態は一層加速したのであった。
ふつう、これはビョーキというのだと思う。
思うがしかしナンダトイウノダ。
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やがて、数十名の力士が誕生し、いよいよ本場所の開催にたどりつく。
第一次と二次の隆盛期があったが、計163場所の熱戦が記録帖に残されて、手許にある。
序の口、序二段、三段目、幕下、十両、幕内と常時ニ,三百名の力士が取組み、
各親方(ヒト)の指導のもと、肉相撲(紙にたいする人間のものを僕らはこう呼ぶ)と同じような
なみだとカンドー≠フ日々なのであった。
研究のためには、敵情視察もかかせない。
そのころまだ蔵前にあった国技館にたびたび出向いては、
千秋楽にしか使わない楽隊席(\500!)で肉相撲を観戦した。
回りでは、アナウンサーの卵たちが実況中継の練習をしていて、
うるさくてかなわなかったし、釣り天井が邪魔で、力士たちの尻しか見えなかったりしたが…
釣り天井といえば、最盛期にはついに、僕の部屋には、国技館も完成したのだった。
もちろん照明も本格的で、秋葉原で仕込んだ器材は
中入り後にまぼろしのテレビ中継用に輝度を増すことも実現した。
もちろん土俵、そして釣り天井、桟敷、桝席、電光掲示板。
傑作は竹ひごでしっかり組まれた数十センチの矢倉。
そしてそれに仕込まれた小さなスピーカーからはふれ太鼓、はね太鼓の音も流れた。
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今、記録帖を眺めている。
七角海(ナナツノウミ)、
彌掛岳(ミカケダケ)、
菜辺の花(ナベノハナ)、
魔剣楼(マッケンロー)、
琴中礼(コトナカレ)など、
名力士たちの勇姿が、涙の向うにかすんで見える。
ご好評にこたえて、次回はいよいよ、理事長みずから、
その加齢モトイ華麗なる歴史をひもとこうではないか!
ゴコーヒョーニコタエテ。
編集部より/どなたか直接筆者に何か言いませんでした?
紙相撲と聴いて、一般的には玩具とか子供の遊びなどとしか思わないだろう。
もし、そんな事はないなどと即座に思うようなら、あなたはアヤシイ人物だ。
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Copyright©2001-2003 Kouhei Oikawa(kohe@music.email.ne.jp)
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