^
別にジョウシャでなくてもヒッスイはちゃんと体験できる。
エバッテどうする…十年ほど前の走行距離、
練習内容からずいぶん遠慮がちな設定にしたつもりであった。
けがや故障も、まあ一時的なものと、タカをくくっていた。
少々時間はくってしまったが、体調はほぼ戻ったし、
あとは記録を少しずつでも縮めていけばいいだけのはずだった。
今日、月もあらたまったし、新鮮な気持ちで夕方のジョギングをはじめたのだった。
この十月はランニング月間とでもいうような月で、一年のうちで一番走りやすい時期である。
来るべきレースシーズンに向けて、
走りこみ(ランナーにとってなんと魅力的な響きの言葉か)を開始する
学校時代の新学期みたいなものなのだ。
そうして、
僕もひとりの愛好者としてワクワクしながら走り出したのだった。
自分で作った記録のノルマから、このところずいぶん遅れをとっていたのだが、
今日の走りで一気にそれをとりかえすことが出来そうな予感を胸に、
公園の周回コースを走り出した。
手ごたえのようなものはあったのだ。
一キロ四分半ペースで十キロはそんなに無理とは感じられない入りであった。
昨日の台風の爪あとである小枝の散乱している歩道だったが、
軽い足取りで周回をかさねていく、ハズダッタ。
そう、ハズダッタ。半分も走りきらないうちに、
僕は鐘の声を聴く身になっているのを実感したのだった。
ちょっとした障害物の小枝をよけきれず足をくじきそうになり、
散歩中の犬の綱にからまりそうになり、果てはなんにも障害物のないところで
つま先を引っ掛けて転びそうになったのだった。
たしかに、ジュウブン息が上がってき始めてはいたが、
とにかく速度はそんなに落とさずに走りきってしまえると思っていたのだ。
体験的に言って、不可能なトライではないと思い込んでいたということだ。
心はそうだったが、つまり体はとっくにヒッスイだったのだ。
これが心境の変化というやつか、五キロあたりで、ためしに速度を落としてみた。
すると、なんと楽だったことか!あたりまえか。
ジョギングってこんなに気持ちよかったんだよなあと、
妙な立場ながら感心せざるをえなかった
。
おそらく、十年前なら走りきっていただろうし、
ジョギングに切り替える発想も浮ばなかったにちがいない。
普段、走ることの楽しさは達成感よりも、そのときそのときの心の充実感などと
理屈を並べててしまいそうな僕なのに、
実はこんなふうにミゴトにとらわれている(わけあって過去形にしていない)ということだ。
ほんとなら、それなりに走れるうちに気がつけばいいのだが、
ヒッスイをしっかり味わってからだというのが、ニンゲンポイというか…
話のゴールはまぢかだ。そしてさらにニンゲンポクなるのデアル。
そこで及川センシュが考えたことがわかりますか。
群馬大学の山西教授のおっしゃるランニングは
『動楽』(ぜひ先生の著書を読んでみてください)だ
という哲学的な発想があることは知っている。
走りの先輩たちが
ことあるごとに走りの持つ精神性を強調されていることも、
モチロン見聞きしている。
だって僕は「月刊ランナーズ」の愛読者であり、
あのマボロシの「シティランナー」への投稿者であったりもしたのだ。
そのうえ、中途半端にがんばっているヤツほど始末がわるい
とウシロユビをさされていることも、知らないけどシッテイル。
なぜなら僕はセンシュなんです。
Qちゃんといい勝負したことだってあるのです、あたまの中では。
Qちゃんに勝てないのならちょっと落として、
日本の男子センシュとならまだまだ、オイオイ。
そうなんです。
目標記録的を下げました、チョットだけ。
|