日々のこと17 |
歌うということ
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ある高名な哲学者が現在の大人の世代に絶望して、
次に世界をかたちづくる世代として中学生を選び、授業をしているという様子をテレビでやっていた。
さらには、その様子を本にまとめて出版されたものが、売れているという。
番組のほうは、ワールドカップの「ウラバングミ」だったので、
ちゃんと見ていないが、冒頭のナレーションはこのような内容のものだった。
ぼくはすこしひっかかるものを感じた。
では、今の大人にあなたは入っていないのですね、とまずはうかがってみたいものだ。
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ワタシもそのはんちゅうの人間だが、ワタシの中にある考えは絶望の対象になっていない、
という見え透いた反論はもちろんされるとは思えない。
ではワタシは高齢なので、社会を動かしている「実年世代」とはちがうとおっしゃるか。
テレビで発言するかぎり十分、
影響力はあることは自覚していらっしゃるだろうから、これも考えにくい。
まあ、ぼくなどかんたんに論破されるのだろうけれど、どのようにか皆目けんとうもつかない。
つまり、これが彼が見捨てる対象の典型だということか。
アンタにかまっているヒマはないの、とそういうことか。
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と、ここまで憎まれ口をきいてきたが、チラッと見ただけなのに、
実はあの老先生の授業中のうれしそうな目のかがやきを忘れるわけにいかない。
ナレーションがどうであったにせよ、あの方は、与え.るというスタイルではあるものの、
その場の子供たちから与えられているのにまちがいない。
あたりまえでしょ、そんなこと。
やっぱり、いまさらそんなこと言うから見捨ててしまいたくもなるのです、
あんたの世代を、デスカ…。
ぼくにとって歌いつづけていられるということは、この与えてもらえるという、
その一点につきる気がする。
歌うことでその場から、つまり聞いてくれる人たちから、ぼくは与えられていることを実感している。
その量はというと、後で気がつく事が多いけれど、
こんなに受けとっていいのかと思うほどだ。
それは、ひとことで言うことは、ぼくには到底できない大きなものであるが。
あっ、逃げましたね、及川クン、大きなものなどと便利な言葉を煙幕にして。
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ほんとうは、与えられているという実感はあるものの、
それがどんなものであるか分かっていないのです。
ただ、なんだか嬉しいものであるのはたしか。
その分量は、時には一日分の鎮痛剤だったり、
時にはつぎのコンサートのために歌を作る原動力だったり、反省して寝てろだったり…
ぼくは当分か、きっとそれ以上にもっと、歌いつづけていられる気がする…。
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2003年イギリス館 |
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Copyright©2001-2003 Kouhei Oikawa(kohe@music.email.ne.jp)
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