日々のこと16 |
作詞家という職業 |
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作詞家という職業が、詩を書く作業とは別の役割として成立したのは、 それほど古いことではない。 なんだかエラソウにしているブン、遠い昔からある職業のようだが、 実際は、ここ半世紀ほどのものだろう。時代考証をしたわけではないが、 つたない知識の断片をならべてみる。 西条八十が詩を書くかたわら流行歌の歌詞に手を染めたのが、 そもそもの作詞家の始まりという考え方もあるだろう。 さかのぼって北原白秋の童謡詩は、 まだ詩人の営みと捉えられていたようだし、現代での評価も同様だろう。 ただし、西条八十も詩人としての存在感のほうがあるようにおもうけれどどうなのだろう。 時代は突然とんで、 昭和も四、五十年代になると阿久悠というコピーライターからの転向した作詞家が登場する。 このころになると、詩人と流行歌の作詞家が同一人物であることは皆無といっていい。 だから作詞家が、ひとつの独立した職業として認識されたのは、 阿久悠登場前後と言ってもいいのかもしれない。 |
そうであるとすれば、つまりはせいぜいが二、三十年ほど前のことに過ぎない。 もちろんたくさんのすぐれた作詞家が登場したのであるが、 おおざっぱに言えば、作詞家とは阿久悠を頂点としたあの時代の数人、 多くみつもっても数十人をさすにすぎないのかもしれない。 なぜ、今さらこんなごたくを並べているのかというと、 その阿久悠が作詞家としてのみ活動することに見切りをつけて、 小説を書くことにおもきをおいてから、ポスト阿久を狙う作詞家が幾人か登場したものの、 独自性を発揮する作家はついに現れなかったことに注目するからだ。 たしかに第二次世界大戦後の昭和時代が作詞家という職業を求め続けたのだ。 そうして、阿久悠の登場を待って、その使命を終えたような気がするのだ。 |
現在、阿久悠のような巨大な作詞家はいない。 そうして、徹底して文学詩から距離をおいて作品を発表しつづけた意味でも、 阿久悠のような「ホントウの作詞家」は存在しない。 この現象はたとえば、文学詩、純粋詩(なにかハズカシイ言葉だね) というカテゴリーを眺めても、小さな動きに気がつく。 自由詩という言葉が短歌や俳句などの定型詩と対立して盛んにもてはやされたころ、 その音読のしにくさとあいまって、活字としての存在を第一義にしていた。 いや、今でも第一義はそれであるようだけれど、自由詩の、そして定型詩の朗読会が、 それなりに耳にできるようにはなった。まだまだ小さな動きとしか、 言えないとおもうのではあるけれど。 とはいえテレビ中継もあったらしいねじめ正一氏主催の 「詩のボクシング」は、その端的なあらわれだろう。 外から見れば、まるで研究室に閉じこもって、 むずかしい実験装置をいじくっているようだと思われた「純粋詩」を、 本物のリングの上にのせてしまったのだ。 小さいといっては失礼だ。 ぼくのようなポピュラー音楽にかかわってきた者としては、 かっての世界歌謡祭のように、世界中から詩人が集まって、 ボクシング形式であれ、なんであれ競い合うのを見たいと思う。 もちろん、必ず批判が出てくるのは間違いない。 詩の水準が落ちたとか、歌謡曲まがいとか・・・ そして、その批判が、ずいぶんとあたっていたりもするだろう。 しかし、それを承知で続けてもらいたいと、願わずにはいられない |
さて、作詞家のこと。不勉強で知らないことがおおいので、 現状認識がまちがっていたらどうしようもないのだが、 現在のポピュラー音楽のヒット曲はずいぶん、 ミュージシャンの自給自足体制がしっかりしているのではないだろうか。 頼りになる作詞家がいないということもあるだろう。 頼りになりすぎて、自分じゃないようでという場合もすくなくなさそうだ。 つまり、作詞、作曲、歌手の分業化が当然だった時代は 、歌手は詞がしっくりこなかろうが、曲がのりにくかろうが、歌うのがまずあたりまえだった。 歌い手の、そして演奏者の感性がほぼすべてのポピュラー音楽が聴かれるようになってから、 これもせいぜいが十年といったところか。 これで、「詞」のボクシング開催の下地はできた。 あとは、詩と詞を、なんとかすり合わせて、 サッカーのワールドカップのように、共同開催となれば、すてきだね。 |
詞の水準が、現在下落したとお嘆きですか? ぼくには、そう聞こえない。 笑っちゃうほど、めちゃくちゃな文体で、 それも間違いだと気がつかずに、歌ってたりするけれど・・・ 作詞家がどんと存在していたころ、そんな間違いは少なかったというのであれば、 そうかもしれないけれど・・・ じゃあ、作詞家の役割ってそんなことだったのですか? そして「詩のボクシング」的な催しものが増えていけば、 きっと文学詩のはんちゅうでもかしましくなるに違いない、 詩の質と価値の問題。 ぼくはとりあえず、そのとき詩が何に、誰にむかって書かれていこうとしているのか、 目の当たりにできるのかもしれないと期待している。 なんて言っているうちに、 詩と詞のクロスオーバーが、さまざまなかたちで表面に出てきましたね。 反射神経のいい言葉の使い手たちが、おどろくほどたくさんいることを、知らされました。 たのしみです。 2003/7/8 |
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