日々のこと10 |
ウルトラ・マラソン
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初めに、知らない方のためにウルトラ・マラソンの定義を。
マラソンは42.195キロを走ることはご存知でしょう。
このフル・マラソン以上の距離を走る競走をウルトラ・マラソンと言っています。
今、一種のブームだと思いますが、歴史は古く一世紀も前に合衆国あたりでもあったようです。
音楽に関係のある話題としては、フォークの高石友也さんが、
オーストラリアでの数日間で千キロを走破する競走を成し遂げたり、
合衆国での数十日間で4、5千キロを走りぬいたりしたことがあります。
この方は別格ですが、音楽家にもそれなりに長距離走をたのしんでいる人はいるようです。
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かく言うぼくも、その一人です。
ぼくの実績は比較するとカワイイものですが、つらさだけはそれなりにあじわいました。
だいだい、テレビで見ていると
トップを走っているアスリートたちほど苦しいように言いますが、実際はそうではありません。
彼等、彼女等は才能もあるでしょうし、練習もしっかり積んできているでしょうし、
長距離走に必ずおとずれる苦しさをまちうけている覚悟があります。
その点、ぼくらのように正反対の出場者の苦しみは、
トップアスリートたちの比じゃないと言っておきましょう。
たいした準備がない、くるしさに慣れているわけじゃない、なんのホウビもない、
もちろん才能なんてドコニモない、のナイナイヅクシでの出場なのです。
もう一度言います。テレビでよくきく言いようはまちがい!
ツラサの極致を味わうのは制限時間ギリギリで『収容車』とやらに、
すぐうしろを追いかけられている人です。
つまり前に行くにしたがって軽くなるということです。
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なに?ツラサの質がちがう?エリートたちの言いそうなせりふですね。
なに?練習量がちがう?
練習はしています。
だけど、怪我するもん、これ以上すると。
それに、それに、ほかのことできなくなるもん…
そして、長距離走の後半に決まっておとずれる苦しさは、どんな立場の出場者にもいっしょ。
それどころか、うしろのほう程、キツイのが現実。
ところで、人間にあたえられた能力のなかで最高のものは『忘却』だ、
って誰かが言ったんでしたっけ?
富士五湖をかけめぐる117キロのウルトラに初出場したとき、
ぼくはそれまでにない苦しみを味わい、100キロ地点で棄権の憂き目にあいました。
ほんとうにつらかったはずですが、実はもうすっかりそのおりの実感を忘れています。
『つらかったのだ!』という、言葉としてしか残っていません。
だからそれ以降のチャレンジを可能にしたのでしょうね。
また、機会がおとずれたら、きっと走るでしょう、
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ウルトラマラソン!
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Copyright©2001-2003 Kouhei Oikawa(kohe@music.email.ne.jp)
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