日々のこと09 |
目の詩と耳の詩
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短歌の岡井隆氏と自由詩の平井出隆氏の対談があり、聴きにいった。
定型詩と純粋詩と言われる分野はなかなか相容れないものらしく、
このような企画は思ったほどない。
ある大きな組織のくわだてにもかかわらず、
ぼくがダイレクトメールの葉書を片手に参加を電話で申し込んだ時点では、
あとでしったことだが、申し込み者はたった一名、つまりぼくだけだったらしい。
もう当日まで十日ほどしかないにもかかわらずである。
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それを知ったときぼくは、いろいろ憶測したものだ。
他の分野とのかかわりについては、短歌界では、
どうも『愛好家』レベルにおいては、ほぼ無関心らしいということがひとつ。
なぜなら、この組織の前回の企画は歌人の方が複数参加したものだったが、
それはほぼ数十名の聴衆を集め、つまり用意された部屋がほぼ満員だった。
実はこれもぼくは聴きに行ったので、今回は〆切られては、と焦って電話をいれたのだ。
たとえばこれが俵マチさんとか、マスコミ上での有名人なら、
ほぼ無関心にも『かかわらず』けっこう聴きに来るひとが多かったりして
…などなど。
実際はなんとか30名ほどの『動員』をしたようだが。
あら。、まあ、あんまり音楽の世界と変わらないなと、変な親近感をいだいたのデシタ。
こういったイベントにぼくが興味を持ったのは、
ぼくが言葉との関わりのある活動をしている以上、自然のなりゆきだろう。
だから参加の動機の核ではあるのに間違いはないが、これだけでは説明不足の気もする。
自分としての確認の意味でも、もうすこし書いてみたい。
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知っておきたかったこととしては−−−
☆音としての言葉は、
音楽(Song)以外の分野でどのように扱われているのか。
☆ぼくらソングライターにとって、音が重要なのは当然だが、他の分野では、どの程度なのか。
☆そして、ぼくが考える『音としての言葉』に対する認識は実際、
他の分野のかたたちとどれほどの共通点 があるのか。
そして今回、岡井氏と平井出氏の対談を拝聴して、ぼくの『音としての言葉』という使い方は
結構普遍的な意味合いを持っていると思っていたのが、
どうやら違うことにきづかされたのだった。
反省をこめて言えば、僕の頭の中にある音は、
五線譜上の音符に表記されやすいものであるらしく、
他の詩の世界の方がいうリズム、旋律は音楽的なものでもないらしいということだ。
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つまり音楽屋の捉えかたは、他の詩の世界の方々が言葉の音の部分を感じるのとは、
ちょっと違うのかもしれない、ここのところを自戒してかからないと、
大きくすれ違うことになってしまうぞ、と思ったというわけなのだ。
もちろん、これはほとんど無意識にしていた作業であるし、
ぼくが音符にとくに強いわけでもないが、比較してみると、そう判断できる。
むしろぼくのほうが常識からずれていて、特殊らしいと気づかされたのだ。
音符に表記できる音楽がすぐれているなどと、
これっぽっちも考えないけれど、今回の対談も、
いずれも興味ぶかいものだったが、音の範疇に話が及んだ時、
それまで高度に分析的だったものが、素朴な感覚論を聴くことになったような気がしたものだ。
しかし、どうもそれが当りまえなのだろう。
言葉の音部分を語る場合の拠り所は、ぼくが考えるより日常であるのだ。
それにしても、ぼくにとってはその落差が、あまりにも印象的だった。
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詩は、もちろん歌わなくたって、朗読という手段の音声化もある。
その朗読だって、俳優、声優によってなされるものから、作者自身のものまでいろいろだ。
しかし音声的な訓練の行き届いている役者たちの朗読が、
その訓練のあまりなされていない作者自身のものより、
かならずしもすぐれているとは言いきれないだろう。
その訳を少々細かく分析していくと、面白そうだ。
たとえば、作者自身が、
音声の訓練をして役者レベルに達したときの朗読ははたして『最強』かどうか。
たとえば、それがSongならどうなのか。
『最強の歌手』が誕生するのか。
おそらく、それはことはそう簡単には運ばないだろう。
まったく別の問題が発生するか、
作者としての聴衆に相対したときの限界なども見えてくるかもしれない。
にしても、歌人、俳人、詩人たちが朗読ばかりではなく、
ぜひSongにももっと接近遭遇してほしい、と願っているし、ぼくも見聞きしていたい。
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Copyright©2001-2003 Kouhei Oikawa(kohe@music.email.ne.jp)
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