演劇ぶっく/1999JUN.



ウニタモミイチの折々のヒト
其の五 及川恒平

 今を遡ること約30年前。若者たちは既成の価値観や商業主義に束縛されることのない、新しくて自由な手作りの文化を諸分野で次々と生み出していった。例えば、音楽ならばフォーク、演劇ではアングラ小劇場演劇が、そのころ興隆した代表的なムーブメントだ。そして、そのフォークと小劇場演劇の交点にもたらされた産物のーつが、別役実の台本、小室等の音楽で知られるミュージカル『スパイものがたり』(1970年。演劇企画集団66)だった。

 この作品は一昨年リバイバル上演され、話題になった。このとき、初演と同じように歌&演奏を担うべく、楽団六文銭というユニットが編成されたが、その大部分が新メンバーで固められるされる中、小室等以外に初演を経験した'もう一人'の人物が参加したことでマニアたちを大いに喜ぱせたものだ。

 その'もう一人'の重要人物こそ及川恒平である。フォーク全盛期を知る者にとっては馴染み潭い名前だ。六文銭というバンドの美声の青年。リーダーの小童等とかおるぷ並ぶ二枚看板の一方として人気を博していた。或るみ者は彼の名曲中の名曲『面影橋から』を今でもカラオケで歌い続けているだろうし(それは筆者自身だ!)、また或る者は学校の生徒集會で「さあ今、銀河の向こうに飛んでゆけ」と、彼の作詞した『出発の歌』を声高らかに歌ったことを思い出すに違いない(それも筆者自身だ!)。そんなイメージに飾られた及川なのだが、元は演劇畑の人間だったという。

 「青山学院大の学生時代、演劇部で、流山児祥・北村魚といった先輩たちと芝居をやってしまった」と及川は過去を振り返る。そして、その流れで演劇団の旗揚げに参加、及川の演出で別役実の「門』が上演されることになっていた。しかし、舞台美術のことで役看の流山児と口論となり、結果、及川が役者、流山児が演出と、役割が逆転した。「それ以降ですよ、流山児氏が演出家の道をまっしぐらにひた走るのは(笑)」

 ちなみに、及川の代表曲として名高き『面影橋から』や『夢のまた夢』は、もともと演劇団の『大塩平八郎の乱』という舞台の劇中敷として生まれた。私はその事実を、今回初めて知った。これらの名曲を20年以上に渡って愛聴してきた私なのに恥ずかしい限りだ。恥ずかしついでに書いてしまえば、好きなしき歌のわりに、いまだにその歌詞の表す世界がどうもよくわからなかったりもする。

「歌っている僕自身もわかりません(笑)。夢を積み重ねて成り立っているような芝居の劇中敷でしたから現実離れしている。あまり具体的に考えないで下さい(笑)」と及川。

 一方、彼は1968年から演劇企・集団66にも顔を出し、別役実の『カンガルー』という芝居に覆面歌手という役で出演している。そのとき『海賊の敷』『さよならの歌』等の劇中歌を作曲し、舞台で歌った(後に、六文銭のレパートリーにもなる)。この舞台がきっかけとなって、同じ企・66の『スパイものがたり』(述)にも係わり、小室等と出会ったことで、以後、六文銭の一員として活動するようになったのである。

 今年の1月、及川は企画66の演出家・古林逸朗に呼び出され、「次の公演で'役者'をやれ」と言われた。演目は別役実の『とうめいなすいさいが」である。

「あまりに突然だったものですからね、しばし呆然としました」と及川。「しかも'やる'と返事をするまで帰さないというんですね。あれはほとんど拉致監禁でした(笑)」

 古林に事情を訊いてみると「キャスティングに悩んでいたときに及川君が夢に出てきたんだよ」という。なんと及川は、夢のお告げによって、舞台に上がらされることになってしまったのだ。そんな彼も、今や役者をやることに何の迷いもためらいもなくなったそうだ。稽古にも人一倍意欲的とのこと。

 ここでハタと考える。これまで彼の人生における畿つかの重要な分節点には常に演劇があったのではないか。今回の舞台出演も、これがきっかけとなって彼にまた新たな方向を歩ませることになるだろう。彼は人生という川の流れの上を飛び進む一匹の赤とんぽであり、その分節点たる横々に常に演劇が立ち現れる。つまり、演劇こそが、及川恒平自身の「面影橋」だったのだ
……と書くならば、それはあまり
に牽強附会にすぎるであろうか。