ポチがしんだ

歌のはなし 曲名 公表作品 作詞者 作曲者
069 ポチがしんだ ルノアールの雲
及川恒平 及川恒平
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   A       Bm       F#m  
きのう ポチが  死んだ   僕は泣いた 胸の

Bm    E7     C#m      E7    ≒
辺り 釘が刺さった  何度も刺さった

   A       Bm  
ちょうど 春だっ  たので  飲んだ

F#m        E7      ≒
水が  ぬるかった          


   A       Bm       E7  
きのう ポチが  死んだ  僕は 街に出た

Bm      C#m  F#m      ≒ 
 悲しそうな 顔で  みんな通り過ぎる 不意に

C#m      E7/ F#dim   B7   E7
ギシギシと  子供が わ ら  う

   A        Bm 
ちょうど 春だっ  たので   雲の

F#m        E7      ≒
形が  ポチだった         


   A      Bm 
きのう ポチが 死んだ   僕は

C#m        E7     A 
手紙を書いた   妹も 書い た ポチの「似が

C#m          E7
お」 しか描け ない のに   そして

F#m        ≒     A /E7  F#m  E7
泣いた 声立てて  僕は うるさ かっ た

    A      Bm 
ちょうど 春だっ たので  グリーン
F#m     rit.     E7 
サラダが  食べた い な       

  人前で何度か歌ったことがある曲だが、そのたびに
究極のリアリティを書いたものを歌いますと言ってきた。
まじめに、そう考えて書いたふしがあるのは、
われながら、思い返せば、ちょっとこわい気もしないではないけれど、
そのとき自信たっぷりだったといえるだろう。
おおまかにはとか、一応とか、但し書きをつけたい気分はあったものの。

 根拠として、自分の飼っている犬が死んで悲しいのは、
おんなにふられたおとこよりつらいはずだ、というのが一点。
 悲しい目でみれば、世の中なんだって悲しいというのが、もう一点。
がんばれば、まだ出てくるけれど、このぐらいにしておく。

 この歌詞に反応してくれたある作曲者が、
以前NHKの「みんなの歌」を目指しているといって曲をつけてくれた。
ほんとうに目指しているのがその曲を聞いてわかった。
あわてて、まずいんじゃないか、と言った意味のことを告げたが、その方は不満そうだった。
 二十年も昔の話である。

 今ては、「みんなの歌」を充分目指せるかなと思う。
「こうはく」は無理だろうな。
いや、歌手にめぐまれれば、少々のことは目をつぶってくれるだろう。
 音響がよければ、もっと可能性が高い。
聞き取りにくい、という意味だが・・・。
 
 ともかく、歌詞となった言葉の、意味を聞きとる方法が、
ずいぶん変化したのは、間違いない。
  この歌詞には、じきにぼくは自分で曲を書いて、のちに録音盤の中にいれた。
レコーディングでは、前奏、間奏のピアノは自分で弾いた。
これも、究極のリアリティをあらわしたつもりであった。
 どんな名手であっても、まねできないだろう、とたかをくくっていた。
録音盤が完成してまもなく、
このときのサウンド・プロデューサーであるピアニストのウォン氏が言った。
「あのピアノのいいねえ、かんじでているよねえ、こんなんだっけ」と、
その場で、ぼくの演奏をまねしてピアノを弾いた。
 ぼくが、さぐりながら弾いたたどたどしさ、そっくりに。
プロをなめていた、と知った。

 そんなわけで、演奏のほうのリアリティは、復元可能だとわかったが、
それでも、歌詞のほうは、これをしのぐリアリティは、過去の歌詞にはないだろうと、
ぼくは、ゆずらなかったのだ。
 つい最近まで、ゆずらなかったのだが、ここのところ弱気になってきた。

 それは、ここにきて、短歌の世界を眺めたせいである。
もし、短歌レベルで評価されたら、
たとえば「ちょうど春だったので」というフレーズにある予定調和は、
作品のリアティをそこねているだらう、とか、
刺さるものとして、釘を選択しているのは安易だらう、とか、
ギシギシというオノマトペは大げさではないか、とか、とか。
 
 たしかにそのとおりである。
あれ?自分で添削したのだった。
  実は、六月のある日都内のカルチャースクールでの講座としてひらかれた、
短歌教室に、またまた行ってきた。
 穂村弘さんが、受講者が前もって提出した三十一文字(近いものも含む)を、
批評、添削しながら、短歌とはなんぞやを語っていくという趣向であ。

 このときの「コンサート・レポート」は、短歌関係の方々のページに、
たんとかかれているので、ぜひ参考にしていただきたい。

 ところで、ぼくは今回、何に感心して帰路についたかというと、
穂村さんのパフォーマンスが、
また一段とすばらしいものになったということにである。
おまえが今まで気がつかなかっただけでしょ、と言われれば返す言葉はないけれど。
 ともかく、短歌に対する情熱を背景に、
日々の瑣末な事象は瑣末ななりに、
かといって、自嘲するでもなく、尊大に構えることなど決してなく、
三時間のソロ・ライブをなしとげた。
その間、スタンディング・ポジションにぶれはなかった。
おどろくべき歌人としての基礎体力といわねばなるまい。

 人のふり見て、というわけで、ぼくは日々炎天下を走ったりなんぞしている。
決して意味を取り違えているつもりはない。

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