ねこじゃらし

歌のはなし 曲名 公表作品 作詞者 作曲者
061 ねこじゃらし ライブ演奏のみ
樋口伸子 及川恒平
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 E    C#m    F#m           B7
庭のす み  秋の陽だまりの 猫じゃらし
 E     C#m     F#m          B7
真昼  の  部屋には 夢だまりがあって   
    A              E
ゆらゆら   消えそうで消えない 
 E C#m     F#m        B7
姉  と    妹が家族の留守に
   E   C#m   F#m          B7
とむらい の    しかたを選びあっている        
   A             E
座敷 ぼっこも さざめきあって
A      /F#m   C#m7       /B7
そういえば昔も   こんなことあったね 

G            C     D7        G
スタイルブックを捲る    十歳年上の姉と
G       C     D7           G
中学生の私    あけたページの中から
C            G   Am7       D7
どれが好きと姉がきく   私はこれと答え
C               G  
次のページで 私が尋ねる
Am7       D7     ≒
たまに同じ服を     ~ 1~  
G            C     D7        G
同時に指差すことが    あれば幼い私は
G            C    D7          G
嬉しくて得意だったが   姉はどうだったのか

G         C     D7        G
給料日に布地を    買っていくにちか
G        C     D7          G
足踏みミシンが    フル回転で音をたて
C                 G  
そばで流れるにがいシャンソン

Am7         D7
懐かしの実存主義の  
C         G   
黒の  若さよ
Am7       D7    ≒
姉はお気に 入りの  ~ 1~      
G          C    D7         G
ワンピースを拵える  その余りで私の服が
G                  C   D7   G
選んだものとは似ても似つかぬ   色と型
C               G   
日本の猫じゃらし少女には
Am7      D7
ちとシックすぎた
C            G   
時がむしりとった 風景
Am7(rit,)      D7     ≒
秋の陽射しに ページがめくれる    ~ 1~   

G   Em     Am7    D7     
わたした ち     姉と  妹は
G   Em      Am7       D7     
達観 と     楽観が入り交じる     
  C              G   
死の送迎の  モード選びに     
G   Em    Am7              D7     
好み が   一致したがその時がくれば
 G       Em     Am7         D7     
またなるだろうか  似ても似つかぬものに     
 C                 G   
ときおり痛みに 顔を歪めながら  
 G    Em     Am7       D7     
横たわ る    末期ガンの姉は       
  G   Em    Am7        D7     
三度目 の   入院を待っている      
  C            G    
死を  じゃらし ながら       



 “作詞”の樋口さんは、数年前、ある現代詩誌の新人賞を受賞された。
この作品は、その受賞作の中の一編である。
だから、むろんメロディがつくことを想定してかかれたものではない。

 この詩集を手渡されたのは、樋口さんの知人からである。
その新人賞の授賞式に上京されることになって、その場で披露したいのだという。
作曲する詩は、僕が選んでよいという。

 現代詩とたんにくくるのはどうかと思うが、
もっと細かく分類したからといって、どうなるものでもなさそうだし、
詩の人口からして、現在はこれで仕方がないのだろう。
と、愚痴をいうのは、この詩集を読み出して、
ばくぜんとながらでも、現代詩に先入観をもっていた僕は一撃をくらったからだ。
 もっと、言葉の観念側によりそっているものを考えていたのだった。
この方の作品は、いってみればブルースにあるような言葉だと思った。
もっともぼくは、木島始が日本語に訳してくれたものや、
レコードの歌詞カードで見ているにすぎないのだけれど。
 樋口さんの詩集の中から、「ねこじゃらし」を選んだ理由は、
今でははっきりとは思い出せない。
たぶん、いつもの直感で、SONGになりやすそう、がその判断基準だったと思う。
 しかし、それから苦難の道に分け入ることになった。
  作曲の過程を思い出してみたい。

 この詩は、姉との昨日今日のやりとりと、幼少時代の日常を重ね合わせている。
じつはこの二枚の風景はぴったりとかさなりあうのだが、
音として考えると、これはまったく別の情感を注入する必要があるとわかった。。

 音楽でのリフレインは、かならずしも、文章での効果と重ならない場合もある。
というか、この場合だと、樋口さんの詩的な世界をわかるためには、
ほとんど足しにもならないだろう。
二つの情景が完全にかさなることをリフレインや、旋律の近似性でしめすことにより、
はっきりと変化させるほうがいいと思った。
作曲と詩作との制作の方法の違い、位相の違いだと思う。
 具体的な作業としてはこうである。

庭のすみ・・・から、・・・こんなことあったね・・・までをひとつ。
スタイルブックを捲る・・・から、ページが捲れる・・・までがひとつ。
わたしたち、姉と・・・以下がひとつ、と大きく三つにわけられる。

そうして、庭のすみ・・・からの言葉のテンポを確認しつつ、分解していく。
この場合のテンポとは、SONGとして聞いたときに、
言葉の意味が伝わるかがまずあり、それを第一義に速度を決めていくのだ。
あくまでも、僕の場合でしかないが。

初めのことばのテンポがきまると、おのずと小節としての配分が見えてくる。
そうすると、どんなながさをもったフレーズかがわかって、
ひとつのフレーズのかたまりが、どのあたりまでをくくればいいのかがわかる。

 この歌の場合は、庭のすみ・・・から、
・・・消えそうで消えない、までが詩の意味の切れ具合からしても、
ふさわしいとわかる。

 同じように展開していくといいのだが、
そういえば昔もこんなことあったね・・・という一行が、
微妙なポジションであることに気がつく。
つまり、この一行は、過去さ現在の橋渡しの役目をはたしているのだ。
これを見のがす手はない。

 この部分の作曲ができれば、おのずと以下、
スタイルブックを捲る・・・からがわかってくる。
ここでは転調による効果をねらっている。

そうやって、わたしたち、姉と・・・から、また現実に帰ってきたとき、
最初のフレーズ感覚にもどって曲が成立すれば、成功というわけだ。
 この曲の完成度はべつとして、手順としてはラストまでたどりつくことができた。
 但し書きをつけておく。きたい。

 音楽をすこしかじった方には、かえってまわりくどいかもしれない。
ここまで、メロディという観念を説明ぬきで使ってきたが、
実はこの曲は、指定されたコードの中にある音を主につかう条件はややあるが、
歌いだしの音と着地の音がほぼ決まっているというだけで、自由にうたっている。
 曲の間尺がきめられてはいるが。
わかりやすい例をあげれば、ある和音を合奏する中で、
リードギターがアドリブで演奏していることを想像してもらえるといい。
あれはあれで、ちゃんと約束事はあるのだ。

 そしてもうひとつ但し書き。
ぼくの場合の作曲方法とことわってきたように、
もっとじっと言葉によりそって、音をひきだしていく作曲ももちろんあるし、
そのほうが多いのかもしれない。

 ただ、
一定のリズムの中で弾き語りすること、
ぼくという専門的な音楽教育をうけていないものでも、なるべくうたいやすいこと、

を条件にしていくと、なるべくむずかしい音程や、変拍子はさけることになる。
それは譜面上、
単語ひとつひとつのイントネーションを完全には復元できないことを意味する。。

 譜面上と限定しなくても、たとえば義太夫のような方法はとっていない。
実際のはなし、ぼくにはできないし、たとえばぼくでなくても、できないかも知れない。
 西欧から入ってきたクラシックの作曲法では、今のところ、
どんな分野ででも日本語のひびきの再現は限界がある、
というのがほんとうのところだ。
認めるかみとめないか、それとも、どうでもいいことと考えるかは自由なのだけれど。

この歌は和製フォークてき、字余りソング、というのを、結論にしたい。

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Copyright©2001-2003 Kouhei Oikawa(kohe@music.email.ne.jp)