あめのことば

歌のはなし 曲名 公表作品 作詞者 作曲者
059 あめのことば まるで六文銭のようにライブ
2002年
及川恒平 小室等
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C           Dm      Em   C6
あめのことばを借りて   あなたに伝えた い
C             Dm     Em           C6     
しんと街にふる雨のように      聞こえなくても 見える音

Dm             C   F        /Fm     C  
これとは言えないことなのに   たぶんあしたもかわらぬ 思い
Dm            C   F       /Fm    C
ちょっと不思議な顔をして   振りかえるのは   あなた

C/C6  CΔ7/C  Cadd9     Dm  G7              C
な  に  も    な  かったかのように   そのあとふたりは 歩きだす
C/C6  CΔ7/C  Cadd9     Dm  G7              C
な  に  も    な  かったかのように   そのあとふたりは 歩きだす

C           Dm      Em   C6
かぜのことばを借りて あなたに伝えたい
C           Dm      Em   C6
森のおくにふく風のように ためいきよりもひそやかな

Dm             C   F        /Fm     C  
これとは言えないことだけど たぶんあなたとおんなじ思い
Dm        C   F       /Fm    C  
長い話の  後半が  今はじまる  ので  しょう

C/C6 CΔ7/C  Cadd9   Dm  G7             C
は ぐ  れ   た  日々の 重さも   抱きしめふたりは 歩きだす
C/C6 CΔ7/C  Cadd9   Dm  G7             C
は ぐ  れ   た  日々の 重さも   抱きしめふたりは 歩きだす

C/C6  CΔ7/C  Cadd9     Dm  G7              C
な  に  も    な  かったかのように   そのあとふたりは 歩きだす
C/C6  CΔ7/C  Cadd9     Dm  G7              C
な  に  も    な  かったかのように   そのあとふたりは 歩きだす

C (slow)       Dm      Em   C6(end)
あめのことばを借りて   あなたに伝えた い

 “まるで六文銭のように”のために小室等と書いた曲である。
僕はそれなりにいいものができたと思っているし、
たぶん小室もそうは思っているにちがいない。
ところが、この歌を“まるで六文銭のように”としてはしばらくうたっていない。
わけは、演奏のリズムがとりにくいからだ。
主にというか、ほぼ、この曲でリズムを担当する小室の問題なのだが、
言うまでもなく、この作曲者は彼なのだ。

 ステージを数日後に控えたあるリハーサルのおり、
この“あめのことば”も選曲されていて、さて、ととりかかったが、
小室がたびたびリズムを変える、というか定まらない。
 ともかくひととおり、通してあわせてみたものの、なにかしっくり来ない。
「このリズム体質に合わない」とかなんとか、彼が言い出すしまつ。
くりかえすが、書いた本人である。

 僕は、べつに彼のつくり出したリズムがやりにくい、のりにくいなどとは、
それまで、かんじていなかったが、その日はいささか不安を感じてしまった。
 リードボーカルのお佳も、不思議な気分でいたようだ。
「これ、やめる?」の小室のひとことに、二人は「うん・・・」と言ってしまって、
それ以来、選曲からもれ続けている。
どうも、それまで数度、彼は我慢してリズムを作っていたらしい。
やめて、ほっとした彼の様子を見て、まあ仕方がないかと思ったのだった。
 いや、実際それほど遠くない過去にも別の曲で、あったのだ。
それも、ほとんど同じシチュエーションで。
 その曲は「インドの街を象にのって」という、やはり僕の作詞、小室等の作曲で、
リードボーカルがお佳というものだ。
 
 この曲は1970年代にLPアルバム「キングサーモンのいる島」から、シングルカットされた。
悪くないノリに仕上がっていたし、なにより六文銭の演奏が楽しげなのがまず納得できる。
 
 そんなムカシを思い出しつつ、「インドの街象にのって」も、
 “まるで六文銭のように”でトライすることになった。
お佳の声にあわせてキーの選択までは、なんとかたどりついたものの、
つまり、リズムが小室から、なかなか出てこない。
 ん、なわけないだろと、作曲者たる彼だって自分でも思っているから、
なにがなんでもかたちにして、そのときのステージでは歌った。
 全うできたのは、放送の公開録音で、演奏曲変更の自由がなかったからともいえる。

 実は、僕は気分よく演奏できて、
当然この曲も“まるで六文銭のように”のメインレパートリーになるものと思っていた。
 そして、その後リハーサルで幾たびかとりあげられたけれど、
なんとなくはずされていったのである。
 
 あるとき
「この曲のテンポがねえ、俺の中にないんだよ・・・」
との小室の重大発言があり、残る二人はしょぼんとしたのがサイゴであった。
 みょうな話だが、本当である。
作曲者の思いが、演奏者としての自分とは、必ずしも重ならないというわけである。
まだ「インドの・・・」のほうは、
書かれた当初は、気持ちよく演奏していたこともあるのだけれど、
「あめのことば」は書かれてまもなく、“まるで六文銭のように”では、
ちんぼつしてしまった。
 と、わざわざ限定したのは、僕とお佳の二人では、けっこう歌う機会もあるからだが、
今回のテーマは、
作曲者の感性が演奏者のそれを必ずしもカバーしていない、
ということにしているので、話を戻す。

  小室のケースとは反対に、脳天気(死語?)なものもある。
及川作曲による「サーカス・ゲーム」「夏・二人で」などが、それに当てはまる。
どちらも、フォーク特有のスリーフィンガーピッキング(もどき)を覚えた記念に作られた。
おお、僕でもやれるじゃん記念なんである。
 その上、現在でもなんのスランプに見舞われることもなく、
さっそうと演奏され、歌われているんである。
いいんだろうか。
いいんである。
 曲のリズム、テンポの違いによるエネルギー消費量というやつは、
たかがギターを弾いて歌うだけのことなのに、ずいぶんちがうものだ。
たとえば、最近三人の中で敬遠されているもののひとつに、
「ひとりぼっちのおまつり」という曲があるる
たしかにガチャガチャギターを弾いて、大声を張り上げるタイプの歌だけれど、
現実のエネルギーの消費量なんて、
静かな歌であろうとうるさい歌であろうとそれほどはちがわないのだろう。
 だけど、演奏し歌う側のもつ印象はちがう。
というか、実際疲労感は全然ちがうのだから仕方がない。
 考えようによっては、音楽は不思議ともいえそうだ。
 さて、「あめのことば」が三人のものとして復活する日が、果たしてくるんだろうか。
僕には解決策があるのだが、大声では言えない。
小声でも言えないけれど、このだれもほとんど見ていないページには書くことができる。
 つまり、小室等は、この歌詞に、もうひとつ新しい曲を書くのである。
今度は自分もちゃんとのれるものを書くのであるのである。

ね、だから言えないっていったでしょ。

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