歌のはなし 曲名 公表作品 作詞者 作曲者
049 もうひとつの世界 忘れたお話
及川恒平 及川恒平
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 Em   Am   B7   Em   G  C   D7   G  
貴方は笑うよ 本当に笑うよ   美しい  街のよう に

Am   B7       Em  ≒   Am   B7    Em  G  A
赤い屋根はもう似合わない     都会の朝がぽっかりと   始まる
  B7     A  Em  ≒
ほらもうひとつの世界    


Em   Am   B7   Em   G  C  D7   G  
貴方は笑うよ 本当に笑うよ   風走る 空のよう に

Am   B7       Em  ≒    Am   B7    Em  G  A
蝉の夕立 じき止んだなら        赤いペンキがうっかりと  零れる
  B7     A  Em  ≒
ほらもうひとつの世界    


Em   Am   B7   Em   G  C   D7   G  
貴方は笑うよ 本当に笑うよ   美しい  街のよう に

Am   B7       Em  ≒    Am   B7    Em  G  A
速い会話の傍らで            珈琲の湯気がユックリと  立ち昇る
  B7     A  Em  ≒
ほらもうひとつの世界


 『さとうきび畑』を作られた寺嶋尚彦さんがなくなられた。
上条恒彦さんもこの歌をコンサートでよく歌っていた。
不思議な語感の歌だと思ったけれど、むずかしいなと感じてもいたので、
僕は人前で『さとうきび畑』を歌ったことがない。
森山良子さんもそうだけれど、きっと歌手の意欲をそそる歌なのだ。
 寺嶋さんのご冥福を祈る。
  この『もうひとつの世界』は在りし日の寺嶋さんにアレンジをお願いしたものだ。
フォークという“新種”の歌を料理するのはなかなか骨のおれることだったにちがいない。
 と、書いておきながら、さっそく裏切るけれど、この編曲にはどこにもアメリカンテイストがない。
いちおう、アメリカのモダンフォークをルーツとして誕生したといえる和製フォークなんだから、
と、異議をとなえる必要もないのだけれど、アメリカがぜんぜんない。
 あるのはヨーロッパ、シャンソン・ド・フランセだ。
アレンジがほどこされていっそうそうなったのだけれど、
アコーディオンの、哀愁あふれるあの響きだ。

 じつは 僕はこの曲が入っている『忘れたお話』の、
すべての曲の編曲にかかわったわけではない。
むしろ、ディレクターであるMさんと小室さんの発想によるものの方が多い。
だって、今となればこのアルバムのメダマは、
吉田拓郎さんも参加した「新・六文銭」が2,3曲演奏しているのだ!
 そして、この曲も彼の考えにより、寺嶋さんにもちこまれたのだと思う。
 Mさんの話をすると、当時フォークの旗頭として活躍していた彼であるけれど、
実際には、フォークに対するこだわりは、そんなになかったように思う。
 もっと、柔軟に賑やかになりつつある状況を、楽しんでいらっしゃったはずだ。

 だからこの曲は、実はカンゼンにシャンソンを意識して寺嶋さんにお願いしていると思う。
それでなければ大御所に依頼するはずもない。
おぼろげな記憶ではあるが、
Mさんの口から、フランシス・レイ、という名が、当時の彼との会話の中に出てきた記憶がある。
  ところで、僕のシャンソンに対する意識はというと、

  1960年代後半に学生として上京した僕かが惹かれたものに『銀巴里』がある。
 この名前だけでわかる人にはわかる。
そして、ひどくなつかしい。
和製シャンソンのメッカであった。
後年おしまれつつ、とじらたシャンソンのライブを聞かせてくれた店である。
 僕は、その銀巴里に学生時代にけっこうでかけている。
主に長谷川きよしさんの弾き語りの日であった。
『別れのサンバ』のギターの指使いが知りたくて、
3,4ステージ、つまり、開店から閉店まで、かぶりつきに陣取っていた。
そして、聞くというよりも、彼の華麗な指さばきを視ていた。
おぼえて家に帰って再現したかったからだが、僕には不可能なもののほうが多かった。

 そして彼の作品は、『別れのサンバ』をはじめ、
『歩きつづけて』『透明な風景』など、シャンソンとしてはどちらかというと異色で
もっと正統派の歌い手のほうが大多数だった。
 そんなわけで、シャンソンを聴きに行っていた、とは言いにくいな。

しかし、フォークを聞きに行っていたつもりも、さらさらない。
だいたいフォークって一般的にはまだなじみがなかった。
僕も、当時はフォークなど全然知らなくて、
シャルル・アズナブール、バルバラ、ブリジット・フォンティーヌ、のちにはジョルジュ・ムスタキと、
傾向などお構いなしに、巴里で歌っていた歌手が好きだった。
この傾向はフォーク歌手として活動してからも、それほど変わらなかった。
 では、この歌を書く時点でシャンソンを意識したかというと、そんな覚えもない。
フツウに歌を書いたにすぎないのだが、04年3月にイギリス館でこの歌をうたったおり、
相当にシャンソンのにおいを感じた人もいたというから、やっぱり僕はシャンソン歌手か。
 とかいうと、シャンソン歌手からしかられそうだし、じゃ、フォークかっていうと、
シャンソンぽいそうだし、けっきょく、
フォークの間口の広さというか、イイカゲンサに救ってもらって、
フォーク界にいさせてもらいますです。
 もう少し冷静にブンセキするならば、
フォークはそれまでの日本の価値基準をゆるがすものとして登場したというわけだから、
『もうひとつの世界』にあるようなヌレソボリ方は忌み嫌うべき対象だったと思う。
 一方、和製シャンソンは、この“花鳥風月”は当然のように取り入れてきたのだから、
僕のこの歌をシャンソンの亜流としては認知してくれるだろう。
 
 その後のフォークが、では何を生んだのかは、ここでは言わないが、
ともかく図式としてはこんなところだろう。
 本場フランスでもシャンソン・ド・フランセは経験主義とみなされて、
ルイ・アラゴン以降の、シュール・レアリストたちのいい標的になっていた。
 しかし、シュール・レアリズムの役をこの日本で負うには、
フォークにはちと荷が重過ぎたのだろう。
 すくなくとも、和製シュール・レアリストたちはフォークに見向きもしなかったようだ。

 じつは、和製フォークの根底には『もうひとつの世界』でさえ、あっと驚くような、
強烈なジャパニーズがひそんでいたと言えないだろうか。
それでなくては、あの後の道程を説明しにくい。

 言わないと言いながら言いかけている・・・

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