papaの独り言 002

『民謡論』


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『フリーホィーリン』というアルバムがあります。

ボブ・ディランの2枚目のアルバムですが、
収録曲の中の『北国の少女』という曲、初めは気がつかなかったのですが、
ある日、歌詞カードを見ていてあるフレーズに目が留まりました。

She was once a true love of mine.

サイモン&ガーファンクルの『スカボロー・フェアー』にも同じ歌詞が出てきます。
詞全体の構成も似ています。
初めは何か慣用句とかことわざの類かと思ったのですが、どうもそうではないらしい。
しかも、イギリスのバラッド・シンガーで
一時期スティーライ・スパンというグループにも在籍していたマーティン・カーシーは、
その名もズバリ『スカーバラ・フェアー』なる曲を歌っています。
調べてみたら、ディランもポール・サイモンも滞英経験があり、
マーティン・カーシーとも交流があり、
しかも彼自身、アメリカのフォーク・ムーブメントに大きな関心を持っていたそうです。
ここでは誰が盗んだとか盗まれたというつもりはありません。
元歌は同じイギリスの民謡だったということだけです。
レコードに記された作者の問題は別にして・・・


そもそも、テレビ・ラジオやレコードなどの大量伝達媒体が登場する以前には、
「歌」は限られた地域、極論すれば、それこそ肉声が届く範囲の共有財産だったはずです。
それが地域を超えて流布するのは人的交流、
たとえば行商や婚姻などでしかなかったのではないでしょうか。
つまり、カーシー、ディラン、サイモンの人的交流により引き継がれた歌が、
多少、姿は変わったとしても
65年、レコードという形で日本にまで伝わってきた、ということになります。

あるいは、同じくボブ・ディランの『アイ・シャル・ビー・リリースト』という曲を、
日本のディランU(セカンド)というグループが
『男らしいってわかるかい』という題名で歌っています。
クレジットはキチンとボブ・ディランになっていますが、
聴き較べても気がつく人は少ないようです。
こうした「空間移動」の例をいくつも見ていると、歌の生命力を感じます。
定着させるとしたら、文字を音符の羅列でしかない「歌」に生命力を吹き込むことができるのは、
まさに人間でしかありません。
そして、同様に「時間移動」の音楽もあるのではないか、と。


2月の下旬に一本の映画が公開されます。
大人向けアニメーションとでも言ったらよいのでしょうか、『NITABOH』といい、
「仁太坊〜津軽三味線始祖外聞」なるサブ・タイトルがつけられています。
未見のまま論評するのは無責任との謗りを免れないところですが、
ある種の期待と危惧を込めてご紹介しておきます。

劇中の三味線は上妻宏光。主題歌を歌うYaeも最近注目しています。
こういう紹介は失礼とは思うのですが、加藤登紀子さんの娘さんだと聞きました。
母親とは違いますが、いい雰囲気の歌手です。 
そしてなによりも注目して欲しい台詞があります。
仁太坊の物語なら必ず出てくるはずです。


江戸時代末、生後まもなく母と死別、8歳で失明、11歳で父親にも死なれるという、
書くだけで悲惨な子供がいました。
それが仁太坊です。
本来、伴奏楽器であった津軽三味線とその曲を
次第に独立した器楽曲へと変化させていく、その原動力となった演奏家です。
その彼が後年、弟子たちに繰り返し伝えていたひと言があります。

「人まねはダメだ。自分の三味線、自分の音を弾かなきゃダメだ」

この台詞を教えてくれた高橋竹山も今は2代がその名を継いでいます。
伝承とは単なる保存を意味するのではありません。
伝統に現代の血を、自分の音を。

民謡とはそうして生き抜いてきた歌、音楽だと思うのです。
ならば、フォーク・ソングにだって、それができないはずはない、と信じたいのです。

それはCDにもならず、テレビにも登場しない歌かもしれません。
あえていうなら、そうした媒体で使い捨てられるより、
一人ひとりの胸の裡に「民謡」という名で刻み込まれるほうがふさわしいとさえ思います。

いま一度、口伝の歌の響きを。                      papa


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