夢眠のフォーク畑 025
白 い 一 日
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♪真っ白な陶磁器を眺めては飽きもせず・・・

その歌が「良いか悪いか」ってのは、誰がどうやって決めるんだろう。
そりゃボクだって、聴いていて思わず「いい歌だなあ」とつぶやくことはある。
だけどそれは

「好きだなあ、この歌」

ってくらいの意味であって、
音楽的理論から来る判断基準があっての評価じゃない。

レコード会社にしてみれば、売れた歌は「良い歌」なのだろう。
一時期のように予約だけで100万枚に届くなんてのは「とっても良い歌」に違いない。
胸を張って「良い歌」とは主張しないかもしれないが、
経営にとっては「相当に良い歌」であろうことは想像に難くない。
クラシックを習っているとエチュードってのが出てくる。
日本語に直せば、練習曲だ。
で、これが「良い曲」かどうかとなると・・・。
音楽家達が認めたのであるからして、
指使いとかテクニック習得にはいい曲なのだろう。
しかし、聴いてどう思うかはまた別の問題である。
ナントカ音楽教室の発表会を覗いてみるといい。
そりゃ、ま、自分の着飾った娘でも出ているならまだしも、
その親に無理矢理引きずりこまれたような場合、
最後まで聴くにはかなりの忍耐を必要とする。
演奏途中で出て行くのは可哀相だし、ね。

冒頭の歌、ご存知とは思うが、
小椋佳と井上陽水というかなりの巧者二人組の共作である。
しかし、だね。ボクのイメージからすると違和感が残る。
そもそも、陶磁器などという器はない。
あるのは「陶器」か「磁器」であって、その総称が陶磁器なのだ。
程よく、暖かい陽の射すダイニング・テーブルに白磁のティー・カップが置いてある。
ボクはその鋭利な輪郭を見るともなく見ている。
やがて、視界の中でその輪郭がボヤケていって・・・。そんなイメージなのだが、
陶磁器と言われたら少なくとも2種類の器を並べなければならない。
瀬戸物屋の店先で品定めしているんじゃあるまいし・・・。
♪ある日、踏み切りの向こうに君がいて(中略)振り向いた君は・・・

この部分だっておかしくないか? 
踏み切りを挟んで、こっちにボクがいて、君はアッチにいる。
で、汽車が通り過ぎたら「もう大人の顔」をしているんである。しかしだね、
アッチにいる娘が振り向くということは、彼女は後方を見ているのであって、
その顔はこっち側のボクからは見えないじゃないか。
またもやボクのイメージなのだが、
遮断機が上がってもしばらく俯いていた君が
決然と面(ツラじゃなくオモテ、と読んでね)を上げると、
その顔は少女から女に変貌しているんである。ことほど左様に女性というものは・・・

いや、だから『白い一日』という歌、
特にその詞は論理的整合性からすると「悪い歌」なんである。
せいぜい譲っても「良くない歌」に類する、はずだ。
だが、しかし、この歌が嫌いかというと、嫌いじゃない。
はっきり言って「好き」なんである。
おかしいと言われても、しょうがないじゃないか、好きなんだもん。
美人だから好きになるわけじゃない。
好きになった女性が美人もしくはかわいく見えることはあるけれども・・・。
感情は理屈を超越するんである。悪いか!
で、だ。これが前回の文章からどう繋がるのかというと、あんまり繋がらないのである。

ただ、「フォークとは何か」とか
「これがフォークだ」とか、

あまり杓子定規に考えなくてもいいんじゃないか、と思うのである。
いや、自分の中ではかなり厳格に定義付けているつもりなのだが、
他人には押し付けまいと思ったのだ。
「原則は厳格に、運用は柔軟に」である。
世間を生き抜く大人の知恵である。あるいは狡猾さである。

ボクはボクの「好き嫌い」を大切にしよう。
同じように、それぞれがそれぞれ拘る「好き嫌い」があるはずだ。
それも認めよう。
そこから何か交わりが生まれるかもしれない。
そもそも、流行物やミリオン・セラーということが
「好き嫌い」の基準だなんていう自主性のない人間とは、
友達付き合いをしなければいいだけのことだし・・・
                                                  夢眠

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