夢眠のフォーク畑 020

フーテナニー



ある時、フォーク・ソング好きな若い友人が集まった場所で
「フーテナニー・スタイルのコンサートをやってみたいね」
と言ったら怪訝な顔をされた。
「なにそれ?」
「昔ね、あったのだよ。銀座フーテナニーとか新宿フーテナニーとか。
その名を冠したラジオ番組もあったんじゃないかな」
友人の一人が補足してくれた。
「何組かのグループやら歌い手が次々に出てきて、
最後はシング・アウトで締めるって形のフォーク・コンサート、かな? 
その形を持ち込んだのは雪村いずみだったとか?」
「うーん、ねぇ。間違いじゃないけど、何もトリビアをやろうってわけじゃない。
おじさんがめざしてるのはもともとの形で・・・」
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・・・1940年頃、
毎週日曜日になると35セントを握った若者たちがその家に集まってきた。
頃合をみて「こんな歌を作ってみたんだけど」と、
一人が歌いだす。それが終わると
「じゃこの歌、知ってる?」
とばかりに、別の一人が古いバラッドなどを弾き、そんな状態が続く。
ある者は伴奏に加わり、ある者はハーモニーをつける。
ひと段落したころ、車座になった参加者から
「さっきの歌教えて」とか、
「俺ならこういう歌詞にするな」
と声が挙がる。
「それいただき」
といった調子で曲や歌詞が練られ、一応、完成した時点では原作者が誰なのか、
分からなくなる場合も少なくなかった。
こうした文字通り演者・観客一体となったコンサートの形式、
というより歌の集団製作の現場がフーテナニー(hootenanney)だ。

彼らは集まるその家を「オールマナック・ハウス」と呼び、
その主要メンバーであったピート・シーガーやリー・ヘイズ、
少し遅れてウディ・ガスリーらによって「オールマナック・シンガーズ」が結成され、
やがてウイーヴァーズへとつながっていく。
時代はやや前後するが、そうした中から
『花はどこへ行った』とか、
『勝利を我らに』だとか、
『ウィモアエ(ライオンは寝ている)』
などの曲が生み出され、あるいは掘り起こされ、
いわゆるモダン・フォークの波が起こる。

後、60年代のフォーク・ムーヴメントのひとつの拠点であるライブ・ハウスでも
フーテナニーと呼ぶイヴェントはあって、
出演者たちは略してフートなどと呼んでいたらしいが、
しかし、オールマナック・ハウスでのそれとはやはり違う。
レッスンと音楽事情視察でアメリカ留学中の雪村いずみがその現場に居合わせた。
で、帰国後、自分のコンサートにシング・アウトを中心にその形式を持ち込んだ・・・
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「……というような次第でね。ホラ、俺達は所詮素人じゃないか。
うまさだけならプロに敵うはずがない。もちろん技術を軽視するつもりはないし、
人前でやる以上は頑張って練習するけどさ。それより……」

夢眠おじさんは熱弁を奮ったのだが、
どうもお若い方々には理解してもらえなかったらしい。
音響システムがどうのこうのとか、ギターはラインかマイクかなどに関心が向く。
そりゃあね、クラプトンも悪かないよ。
エレキを使ったらフォークじゃないなんていまさら言わないけどさ、
シンセサイザーだろうがドラム打ち込みだろうが驚きゃしない。
でもさ、アマチュアでフォーク・コンサートと銘打つ以上……
おじさんの声は段々と小さくなり、やがて、それは愚痴めいた独り言になっていった。
歳、かな?

「なんでそんな昔の話、知ってんすか? 
その場に居合わせたわけでもないでしょう?」
そう訊かれることも多いのだけれど、でもなあ、
ベートーベンやらモーツァルトやらを教えてくれたあの音楽教師だって、
彼らと会ってたわけじゃないだろさ。

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