日々のこと 50
デジカメnikki vol.5
携帯デジカメ編
日々のこと表紙へ ホームへ

なんだか暇なんじゃない?ぼくったら。
 通りかかった街中のドアにあった園児募集のポスター。右上に書かれている『なきむしもつよがりもいました』に考えさせられた。不思議な響きをもっている。募集のキャッチコピーとして添えられているとは思えない。当然、関係者としては初めは、簡明なコピーを考えていたに違いない。
 『健康な若者よ、ここに集え』いや募集するのは、もっと若かった。『ハッピー、ヘルシー、ビューティフル』軽いしはずれているし。などとブナンなところを考えていたのだろう。

 しかし、この方の職業上の苦労は、そこに立ちどまらせなかった。ここにある一種の詠嘆調は、日本人の情感の原点に立ち返っている。つまり、定型短詩的に、ひとの心にしみじみとうったえかけてくるのだった。あっ、つい僕も過去形を使用してしまった。
click
 そして、一転この断定的な響きのポスターを見た。町内運動会のキャッチコピーだとは思えない。いや、深いわけがあるのだろう。
 第二次大戦前後に勃発した、会長派と副会長派の確執は、年に一度の運動会の場では、フィジカルな対決を合法的なものにしてくれる。
 その晩、勝った側は美酒に酔いしれ、まけた側は赤チンをぬったりなぞしつつ、翌年の必勝を期しての慰安会になるという。21世紀にまで持ち越された闘争は既にして親子三代に及ぶ。

 しかし、少子化にともない、そろそろ出場選手のロボット化も画策されつつあるそうな。あぶないし。
 全体をくまなく覆っているノスタルジアが、風雪ん年の歴史を一瞬に、そして万人にうったえかける。したたかな計算のできる秀才か、奔放な発想を持つ天才の手になるものなのだろう。

 通りすがりの街角でみかけたのだけれど、その一帯はぼんやりと煙っていて、この世とは思えない雰囲気があった。レンシューズという表記もすごいけれど、真ん中の行のレタリング感覚は、図抜けている。中央部に錆をあしらっているところは鬼気迫る。
 どうして四行にしなかったの?なんて、質問する勇気のある人、いますか。
 京都か神戸にいるものとばかり思っていたカズさんが、横浜の場末で着ぐるみをきて、アルバイト(この言葉まだあるといいなあ)していた。つい、癖が出てしまうので、弱視の僕にさえばれてしまったのだ。
 なんて言われたくないらしい。確かに年老いた熊であった。元祖だ、総本家だと語りかけてくる。
 だけど、カズさんが登場しなかったら、やらしい熊で終わってしまっただろう。
 重い決意である。サービスするということは、これぐらい重いのである、コームインにとって。
 ほんとうに正直だ。こんな方たちにこんな辛酸を舐めさせていいのだろうかと、ポスターをみてしまった一般市民は思ってしまう。
 終着駅で床に散らばっている空き缶など見向きもせず、オフィスに帰って行くのが普通だった日々。自動改札機が故障して切符の出てこない乗客を、静かに見下ろすのが当然だった時代。それが・・・。

 なりふりかまわないうめき声をともない、我々市民の心をゆさぶる作品ではないだろうか。公共の場の掲示物としては、まれにみる存在感である。

ここで書いておかないと、一生機会を逸しそうなので。

click  なまペンギンを看板にしている店があった。この手の店はそれなりにあるのだろう。ところで、この写真と何の繋がりもないが、ペンギンにほれられたことがある、という話。

 旅先の小さな動物園にペンギンが低い柵の中に数匹きいた。ぐるりと、その周りを一周できるようになっていた。そうして、そのペンギンがいたのだ。僕が一周すると、見物の子供たちの頭越しに、ぼくを見て、柵の中ではあるが、一生懸命ついてくるのだった。
 初めはウソだろうと思っていたが、とちゅうでUターンするとペンギンもそうするので、信じないわけに行かなくなった。僕としては、旅先で汽車の時間もせまっていた。しかたなく、君とはキヨイママでわかれるしかないのだよ・・・と、心を鬼にしてたちさったのであった。
 なんだか暇なんじゃない?ぼくったら、昔っから・・・。

日々のこと表紙へ ホームへ

Copyright©2001-2003 Kouhei Oikawa(kohe@music.email.ne.jp)